あてもなき 夢想に耽らぬ 人やある

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パレット氏の最高裁判事承認さえ済めば、トランプに用は無い?


顔を見ると結構可愛い女性で、何でこういう優しい顔したおばさんが保守派なの? と思ってしまうが、今日は品定めに書いているのではありません。

とにかくトランプが大統領でいられる内にと、民主党の強い反対を押し切って上院で彼女の指名承認まで済ませた。

しかし共和党内にも、トランプ落選を目指して運動するリンカーン・プロジェクトなるものがあり、他にも同党系の元政府高官が多数、バイデン支持を表明したりしている。一般党員にもこの大統領振りにはうんざりという人も結構いるのではないか。

それが隠れバイデン支持者かどうかは知らないけれど、最高裁判事にもう一人保守派を任命するまでは、厭でもトランプをかつぐしか無いと考えてきたのではないか。

そういう人達は、バレット氏の承認さえ成ればもうトランプみたいな大統領に用は無い、法も暗黙のルールも無視して突っ走る、ただただ大統領の椅子に座り続けたいだけの人間はお払い箱だ、と考えるのではないか。そしてバイデンに入れないまでも、投票しないという選択をするのではないか。

どこかでちらっと見たような気がする見解で、私独自の発想と申す積りはありませんが、日本ではテレビでも新聞でも全く見られないので、敢えて選挙前の予想として書いておきます。

さてそういう共和党員がどのくらいいて、実際にトランプ落選に貢献してくれるのかどうか、これは神のみぞ知るだ。

哀愁の調べ わが心を慰む (20)


儚き夢

ロシア風イージーリスニング(「哀愁の調べ わが心を慰む (19)」)に凝っている内に、思いがけない発見です:

 乙女たち...
 
アップテンポで、でもどこか哀しげな曲をバックに、読書や散歩中の可憐な少女たちの絵が流れます。

何気ない姿を目にした瞬間、ほのかな恋心が芽生えて抑えられなくなる。昔々そういうこともありました...

絵の少女たちを見ていると、ナンパしようなどという気も失せて、ただただ見とれていたくなる。これは言わば片思いの世界。

そう気付いてもまだ眺めていたい。そんな願いが伝わったのか、同じ絵を大きなサイズで見せる動画が出てきました:

 ビデオ・ギャラリー

中でも1番, 3番, 4番と後半の何人か、清楚で気品のある雰囲気には溜息が出てしまう。

そして芥川龍之介『侏儒の言葉』の一節を思い出す:

少女 --- どこまで行っても清冽な浅瀬


そんなんじゃないことは分っているけど、この絵の少女たちを前にすると夢を見ずにはいられない... 一体何故なのか考えていると、絵の仕上って行く様を見せる動画があって、モデル無しで制作しているように見える:

 Emerald Bay

ということは、彼女たちは画家自身の憧れを絵にしたものなのかも。

それに、初めは細部まで綿密に描いてあるように感じたが、筆遣いを見ていると巧みにぼかして、見る者に想像の余地を残しているような気がする。夜目遠目笠の内。そのテクニックには脱帽です。

このブログを読んだ娘たちが「男ってバカね〜」と呟き、こんな雰囲気を狙って化粧や立ち居振舞いを工夫し始めたら... 夢見る少年を待っているのは果して幻滅か、それとも幻滅を突き抜けた先にある真の出会いか、な〜んてね。

追伸。私の楽しみ方:

 乙女たち...

の音楽を繰り返し流しながら、

 ビデオ・ギャラリー

を画面一杯のウインドウに表示し、音を消して再生速度0.5で流す。

気持良いですよ。但し、先日ご紹介したブラウザBrave(「YouTubeがCM無しで見られるブラウザ"Brave"」)を使わないと、あちこちにCMが入って悲惨なことになります。

山岳風景五選


YouTubeでロシア風イージーリスニングを聴いていると (「哀愁の調べ わが心を慰む (19)」)、自然の風景や絵画が良く出てくる。

何度も見ている内に、今度は山岳風景や空撮映像そのものがお勧め動画に出現。

実は若い頃それなりに登山を楽しみ(「丹沢で遭難する術」)、南北アルプスにも行きました。そのせいか、自分の足では行けなくなった今も、山岳風景が好きです。

もう10年以上前、NHKのBSでロッキー山脈の空撮映像を見て、両親にも見せて上げようと、妹から貰った4:3で20インチ程度のブラウン管テレビの代りに、32インチ液晶テレビを購入。同じマンションに住んでいた二人を連れてきては見せ、最後には両親の家にも買って上げた (と言っても資金の出所は両親だったような気もするが、記憶定かならず)。

しかし、ほんとに見事と思う番組は中々無いのでDVDを買ってみたりしたが、これが意外にお粗末。二人とも亡くなってしまった今になって、YouTubeで本格的な山岳風景を見付けたわけです。

思えばYouTubeが始まった頃は、5センチ四方程度の小さなウィンドウで、おっ!と思うような絵があっても、拡大すると却って迫力が落ちる始末だった。それが今や、iMacの21.5インチ画面全体に拡大しても画質の落ちないものが多くなった。

そればかりか、タイトルに4Kと付いて解像度2160pなんてのまであり、驚異的進歩です。残念ながら、私の持ってるiMacはハードの解像度が1080p止まりなので、恩恵を受けられない。しかし錯覚とは恐しいもので、Apple社に電話してハードの性能を確認するまで、「お〜、2160pで見るとこんなに綺麗に見えるのか」と感心しておりました(はっはっは)。

CM無しで見られるブラウザが手に入ったこともあり (「YouTubeがCM無しで見られるブラウザ"Brave"」)、山岳風景の見られそうなものを片端から開けてみた。中には山岳鉄道や山岳道路の方に興味があって、風景としては物足りないもの、映っている風景が次から次へとぽろぽろ変って、ゆっくり鑑賞できないものもあり、撮った人間はほんとに山岳風景が好きなのではないらしい。

ひどいのになると、しょっちゅう投稿者自身が顔を出す。どうして、ダサい男の顔をアップで映し込んだりしなきゃならないのだ。

幸い、私と同じような感覚でじっくり眺めさせてくれるものものもあります:

Glacier National Park Montana America 4K 18分
(2分35秒以降が良い)

ALPS + DOLOMITES 4K 23分

マッターホルン 7分

Dolomites Tre Cime di Lavaredo italy 4K 42分

Swiss Alps 4K 33分

念のために申しますが、私は全て音を消して見ます。景色を楽しんでいるのに、リラックスできる音楽とか言って気に入らないものを聞かせられては堪りません。

ブラウザBraveだと、数時間の長いものでもCM無し。余りに素晴しい風景なので、根が真面目な私は「こんなものをCM無しで見ちゃっていいのか知らん」と考え込む。

ところで最近の若い人は、小さな字でも読めるからと、人のブログを読むのも音楽もスマホで済ませているようですが、山岳風景だけは、ちゃんとおウチに帰ってデスクトップの大きな画面で見ないと損しまっせ...

YouTubeがCM無しで見られるブラウザ"Brave"


最近YouTubeに

 「不要な広告を非表示に」

と唱える新たなブラウザのバナー広告が出現。しつこさに根負けして試したところ、ホントにCM無しで見られる! しかも無料。

事前に一応ウィキベディアの記事などはチェックしました。YouTubeがCM無しで見られるブラウザを無料で提供、なんて慈善事業みたいですが、一部のCMは流してどうとかこうとか、ビジネスモデルは持っているようです。

残念ながら、ソフトのアイコンが赤地に白のライオンだかなんだか良く分らない動物で、操作性もSafariと同じというわけにいかず、デフォルトのブラウザに設定する気にならない。取り敢えずYouTubeだけBraveで見ることにしました。

以来、ロシア風イージーリスニングを次から次へと聞く時も (「哀愁の調べ わが心を慰む (19)」)、天井に吊されたブランコに必死で乗ろうとする猫や美しい"景色"を眺める時も、一切CM無しで楽しめるようになりました。何という爽快感!

CMが消えたからと言って、年齢制限のあるものまでは見ておりません。ホントはちっとは見たいけど、YouTubeその他のサービスを片端から買収して、何をするにもGoogleを経由させようとする同社の戦略に反撥し、4年前にGoogleアカウントを捨てましたので (「さらば Androidスマホ、さらば Google...」)、見られないのです。我ながら、実に賢明な選択をした。

テレビでも何でも、CMの謳い文句に真実は一割も含まれていないと腹を決めていたが、今回だけは100%本当らしい。

但し、ネットからダウンロードしたソフトである以上、暫く経ってから悪さを始めないという保証はありません。ソフトが充分普及したのを見計らって、ある日突然「今まで通りCM無しでご覧になるには月に○○円」と言い出さない保証も。

私も、パソコンが撹乱されてしまう事態をちらっと思い浮かべ、それでもCM無しの魅力に勝てずインストールしました。この記事をご覧になった方も、試す際には自己責任でお願い致します。

追伸『日経』2021年1月1日付けに、

〈ポストGAFAの胎動〉(上)
データの集中、伏兵が崩す
 SYNQA:決済技術で世界結ぶ
 米ブレイブ:広告クッキーに頼らず

との記事が出ました。一部要約しますと、

クロームでブラウザ市場の過半を押えるグーグルの牙城に挑むのが、ブラウザ開発の米ブレイブ・ソフトウエア。20年11月のアクティブユーザー数は2200万人。

閲覧履歴が分るクッキーに頼らずに、適切な広告を配信できるのが特徴。「プライバシー保護で顧客と向き合える」と、ニューバランスジャパンで広告宣伝を手がける鈴木健氏はブレイブを評価。同社に加え米インテルやサッポロビールなど大手が集う (要約終り)

つまり、私が気付いただけの、どこの馬の骨とも分らぬブラウザではないということです。

哀愁の調べ わが心を慰む (19)


ロシア風い〜じ〜りすにんぐ十選

 風...

ピアノのお稽古で年寄りの指を痛めぬようにと思うと、10分弾いては15分休むという感じになり、全体ではもの凄い時間を割いています。バルザックの『あら皮』さながら、私の寿命はその分どんどん縮まって行く... (「バルザックの『あら皮』または『悲しみの皮』」)。
  
YouTubeのお陰で、バッハにも綺麗な旋律の曲があるらしいと気付いて以来二年近く、休憩中はバッハまたはそのピアノ編曲を片端から聞いてきたのですが、余りに禁欲的生活が続いたせいか、何となくイージーリスニングに傾いてきました (「哀愁の調べ わが心を慰む (18)」)。

その内に何故か、説明がロシア語だけの動画、それも哀愁の調べと呼ぶにぴったりの曲が次から次へと出現。ロシア風のイージーリスニングには何やら抗しがたい魅力があって、ついつい聴いてしまう。サキソフォンがこんなにむせび泣くような音色を響かせるとは知らなかった。

1950〜60年代に日本でロシア民謡が流行ったように、もしかしたら民族的心性に通ずるところがあるのかも。今ロシアと言うとまずプーチンの顔が浮かぶので、残念ながらそういう想像はしにくいですが... そう言えば、日本の演歌をアレンジしたものも出てきました。

動画の説明が全く読めないので、題名の意味だけでも探ろうと、iPadアプリの露和辞書を購入 (研究社の15000円ではなく小学館の2940円)。紙の辞書じゃないから、アルファベットに相当する文字の順番が分らなくても引けます。

すると曲の題名は、雨、風、秋、冬、月、空、木の葉、美、愛といった言葉の組合せが多い。しかしロシア語には名詞・形容詞にも格変化があるから、初等文法の知識が無いと単語の繋ぎ方が分らない。

「秋の雨」なのか、「雨の降る秋」なのか、「風に舞う木の葉」なのか、「風が木の葉を吹き払う」のか... といった調子。

それはともかく、まるで日本の演歌みたいに(失礼)似たりよったりの旋律が多い中に、時々きらりと光る曲がある。それをご紹介します。ロシア語をブログ上で再現するのはさすがに面倒過ぎるし、英語のタイトルが付いていないものには単語を一つ二つ拾って訳語を示しました:   

 猫...
猫と言っても、「猫踏んじゃった♫」の類ではなく、かって可愛がっていた猫を懐かしむような雰囲気の曲です。

 乙女たち...
これについては「哀愁の調べ わが心を慰む (20) 儚き夢」に詳しい解説あり。

 When we sang about love...
この曲を聴けば聴く程気に入りまして、ピアノソロ・バージョンの譜面を必死に探しております。投稿者に問い合わせるために、Googleに対する嫌悪を我慢してアカウントを再登録したくらいです。もしかしたら弾けるかも... というのは例の如く幻想であること覚悟しておりますが、お心当りの方はどうぞご一報下さい。

 サキソフォン...

 夏よ、さようなら

 日の光...

 雪が好き...
女性のハスキーなコーラスに気付いて余計好きになりました。

 Prelude "Irina"

 トレフィモヴ・オレグ...


ピアノを始めて二年半、背伸びと知りつつ、ブランド狙いで「インベンション13」に手を付けて半年、「小前奏曲9(BWV928)」4ヶ月、漸く1/4倍速で一段ずつなら弾けるところまで来たが、い〜じ〜な生活を続ける間に上達がぴたりと止まり、お稽古の休憩中にこういうものを聴いているのか、聴く合間にお稽古しているのか、判然としなくなってしまった...

追伸 どういうわけか時々、ご紹介した動画が見られなくなっていることがあります。定期的にチェックして他の素敵な曲と差し替えておりますが、ご覧になる時に間に合わなかった場合はどうぞご容赦下さい。

「拍手コメント」を下さった皆様へ


ある記事に拍手して下さると、「この記事へのコメント」という別画面に移って、コメントが入力できます。しかしこのコメントはブログ上で公開されません。

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昨日久し振りに拍手コメントを頂いたので、管理画面にて「お礼コメント」を入力し、「更新ボタン」を押しました。

しかし、お礼コメントは一体どういう形で相手に伝わるのか急に気になって調べたところ、相手がもう一度拍手して下さった時に限り、拍手コメントの画面が見られるようになり、お礼コメントも読めるのだと判明しました。

でも、拍手コメントを下さった方にそれを知らせたくても、相手がブログでも張っていない限りできないし、いずれにしても「もう一度拍手して頂戴」なんて言えるわけありません。

「拍手コメントの仕組がおかしいんじゃないの」とFC2に問い合わせたところ、FC2ユーザーサポートの返事です:

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今まで拍手コメントして下さった際には、必ずお礼コメントをお送りした積りですが、多分ご覧になれなかったこと、ここにお詫び申し上げます。

トランプ:郵便投票が自分に不利だから


資金集めに尽力した人物を合衆国郵便公社の長官に任命。

コロナ下の大統領選で郵便投票が例年以上に増えることが確実なのに、新長官はわざわざ、

 公社のリストラに取り組み、
 残業時間を大幅に制限、
 仕分け機の10%の稼働を停止、
 全米に亘って郵便ポスト数百台を撤去。

全て、集配等の業務を停滞させ、郵便投票を混乱させることばかりだ。

しかも、公社は資金難で250億ドルの補助金を必要としているというのに、トランプはそれに反対し、8月13日の Fox Business News でその理由を明言した:

「この補助金に反対するのは、郵便投票に反対だからだ」


郵便投票が自分に不利だからと、郵便業務の停滞を狙って強力な支持者を公社のトップに据え、資金的にも公社の首を絞める。ここまで汚い手を使うものか。

追伸 以上、8月18日付の仏『ル・モンド』紙の記事を元にしましたが、英語系の情報もあります:

トランプ氏、郵便公社への補助金を拒否 郵便投票減らすため

PCR検査をやり過ぎると医療崩壊を招く?


オリンピックが一年延期と決まるまで、開催できない状況と思われぬよう検査数を抑えていた、というのはもはや公然の秘密らしいですが、その後も何故か、いつまで経っても欧米諸国のようには増えない。

テレビで石原良純などが業をにやして、「一体どうして日本は欧米並みに今の10倍, 20倍に増やせないのか」と憤ると、専門家や事情通が言うんです:

「日本の法律では、一旦陽性と判定された者は、病院か指定のホテルに収容しなくてはならない。野放図に検査件数を増やしたら収容し切れなくなって... (違法状態が発生する)」

或いは

「陽性者が増え過ぎると、彼等が医療機関に殺到することになって対応能力を超えてしまう、つまり医療崩壊が起こる」

しかしこうした理屈は、本末転倒じゃないでしょうか。

検査件数を10倍, 20倍に増やした結果、医療機関が対応しきれないほど、ホテルまで動員しても収容し切れないほど、陽性者が出たとする。

でも彼等は、検査件数を一気に増やした結果 陽性であることが判明した、つまりは症状も何も無かった人達だ。中には不心得者もいるだろうが、まともな常識を備えた市民が結果を知れば、病院で今すぐ対応できないと言われても収容されなくても、自主隔離なり何なり、可能な限り人にうつさない努力をするだろう。

同じ人達が、検査されないがために感染していることを知らず、特段の用心もせずにふらふら出歩くのと、どっちが良いの?

答は一目瞭然!と言いたいところですが、私も今の今まで「収容し切れない、医療崩壊を招く云々」の論理が本末転倒であることに気付きませんでした。

まさか政府も、「陽性と判明した人間が収容されていない」という違法状態が発生するのを防ぐ方が、感染拡大の抑止より重要と考えているわけではないと思いたい。一方、PCR検査を増やせと勧告し、医療機関とは別にPCR検査センターまで設置したりしているのは、陽性者が殺到したら困る筈の医療関係者です。

更にネット情報によれば、大学の研究室や民間の検査会社などにはPCR検査の機器も人材も充分ある、本気で検査件数を増やしたければそちらを動員すれば済むことだとも。

以上を考え合わせると、厚労省は結局のところ、トランプと大差ないことを考えているのではないか。彼は6月末にあっけらかんと口を滑らせたんです:「検査件数を減らせば感染者数は半減する」

追伸その一 8月2日付の『毎日』によると、3月に官邸で連日開かれていた連絡会議で首相はPCR検査を「もっと増やせないか」「どんどん検査をさせてほしい」と厚労省にせっついた。それでも鈴木康裕医務技監は「鋭意検討します」などと煮え切らない返答に終始したという。

医務技監は官僚でも医学知識の専門家なので人事権を梃子に動かすわけにいかないと言うなら、どうして次の追伸に引用したような外部の専門家でPCR検査拡大論者を分科会などに連れてきて、他の委員の前で件の医務技監と直接議論させないのか。

追伸その二 こんなことを考えているのは私だけなのか知らんと、8月2日になって「PCR検査、医療崩壊」と検索してみたところ、このブログと同じ日付の『文春オンライン』に、現役医師 (徳田安春・沖縄群星臨床研修センター長) の同趣旨でもっと詳しいコメントが載っていました:

「PCR検査を増やせば医療崩壊」は本末転倒

わざわざ言えば却って疑われるかも知れないが、パクったわけではありません。

政治的妄想


消費税減税解散の可能性が囁かれている。

事実、いま消費税減税を掲げて解散したら、落目の安倍・自民党でも必勝だろう。

しかしたとえそうでも、消費税率を元に戻す時に景気に急ブレーキが掛かるのが怖くて、とてもできないのではないか。

第一、財務省が絶対反対するだろうし、任命されたばかりの太田財務事務次官は、森友学園を巡る公文書改竄問題で理財局長として国会対応に当り、安倍晋三が一方ならぬ恩義を感じているそうだ。

省庁幹部人事を掌握したと言われながら、肝心なところでは、それを梃子にぐずぐずする厚労省などに言うことを聞かせられなかった安倍晋三だ。ましてや、恩のある太田事務次官率いる財務省の反対を押し切れるだろうか。


と妄想したのですが、PRESIDENT Online (7月14日) には全く逆の分析が載っていました:

「財務次官の交代」は安倍官邸が消費税減税に動き出したシグナルだ

哀愁の調べ わが心を慰む (18)


フランスの作曲家

 サン・プルー (Saint Preux)

と言われてもピンと来ないかも知れませんが、この曲はご存知でしょう:

 「二人の天使
 (Concerto pour une voix
 一声のためのコンチェルト)

イージーリスニング系の作曲家らしいのですが、非常に多作で素敵な曲も多い。でも日本では何故か「二人の天使」以外殆ど知られておらず、かく申す私もつい最近発見したばかり (連載 (17) の一番最後)。

私の好みと申しますか、ポール・モーリアやリチャード・クレイダーマンのようなただただ甘い旋律とは一味違います。とは言うものの、こういうものばかり聞いていると「バッハはど〜なったの〜?」と問い詰められそうな気がする...

 Adagio pour Piano

 Rhapsodie

 Aria de Syrna

 Harmonies

 Andante pour Trompette

 L’Archipel du Souvenir
 (記憶の列島)

 Concerto pour Elle
 (彼女に捧げるコンチェルト)
初めて聞いた時は一瞬「二人の天使」の二番煎じかと思いましたが、こちらの方が遥かに魅力的。変な邦題「エレの涙」が付いていますが、それについては最後の注をご覧下さい。


さて「涙」で思い出したのですが、1950〜60年代アメリカン・ポップスの日本語カバー曲に「恋と涙の17才」というのがある。元はレスリー・ゴアの

 You don’t own me (1963)

切ない恋心を思い起こさせる旋律ですが、歌詞は全然違う。そもそもタイトルが

 「私は貴方の所有物じゃない」。

 (この曲を含めて当時の欧米ポップスについては、次のサイトに曲ごとの解説があって驚異的に詳しい:
 「竜馬のブログ わが青春のポップス」
 「記事一覧」)

日本語カバー曲を作るに当って、ロマンチックな旋律から直感的に「恋と涙の17才」が閃いたのは許せるとしても、歌詞が原曲の趣旨を完全に裏切っていて、今更言ってもどうにもならないが腹立たしい。元の歌詞は上記リンク先の項目「恋と涙の17才」の最後に掲載されている通り、

 You don’t own me, I’m not just one of your many toys
 You don’t own me, don’t say I can’t go with other boys
 Don’t tell me what to do
 Don’t tell me what to say
 Please, when I go out with you
 Don’t put me on display,
 .....
 私は貴方の所有物でも、オモチャでもないの。
 私は貴方の所有物じゃないの、
 他の男とのデートはダメ、なんて言わないで。
 私にああしろ、こうしろと言わないで。
 私を見せびらかそうとしないで。
 .....

といった調子です。このあとも「私は若いの、自由なの、生きたいように生きるわ」などなど、後年のウーマンリブやフェミニズムの運動を先取りするような文句が続きます。

ところが、つちやかおりのカバー曲 (同じ項目にある動画、湯川れいこ作詞) では何と、

 ゆらゆら ゆれる夏が怖い
 あぶなく 波にさらわれそう
 今度が初めての 17の夏なの
 これが初めてで 二度と戻れない
 もう独りじゃ 生きていけなくなる
 涙の意味が 判りそうよ
 ああ、もうすぐ夜が わたし連れに来るわ
 せかせる夕陽を 引き止めておいて
 なぜ、なぜ、こんなに あなたが 好きなのに
 少しさわられて 泣き出してしまうの
 わからないの 動けないの でも ほんとに好きなの
 NO、NO、まだ帰らないで、ねえ
 あきらめないで
 そんな、悲しそうな 目付きをしないで
 わたし 砂に埋めて どうぞ 張りつけにしたら
 キスして優しく 上から抱いてね
 なぜ、なぜ、なんにも してくれないの?

原曲そのままの歌詞が女の子達に広まったら困る、という男性側の陰謀に湯川れいこは加担してしまったのでしょうか。

注1 原題 Concerto pour Elle そのままの「彼女に捧げるコンチェルト」で良いと思うのに、変な邦題「エレの涙」が付いている。
 「...の涙」はともかく、仏語の三人称単数代名詞・女性形 elle (敢えて片仮名にすればエル) が何で「エレ」になるのか理解できない。わざわざ邦題を考える以上、仏語について最低限の知識は持っているのでしょうに。

注2 「恋と涙の17才」: 弘田三枝子と中尾ミエによるカバー曲はつちやかおりよりはましと言っても、原曲の心が微かに感じられる程度です。

米モンサントを買収した独バイエルが巨額和解金


医薬・農薬大手の独バイエルが2018年に買収した米モンサントの除草剤の発がん性をめぐる訴訟で最大109億ドル(約1兆1600億円)の和解金を支払うと決めた (日経7月8日付け記事)。

モンサントが発ガン性を隠蔽するためにどんな策謀を展開したかは、以下の記事をご覧下さい:

モンサントの除草剤ラウンドアップに発癌性?(一)

モンサントの除草剤ラウンドアップに発癌性?(二)


祇園精舎の鐘の声


諸行無常の響あり。娑沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
(『大辞林』特別ページ)

片や日本では、首相の鶴の一声(?)で自民党本部が1億5000万も投資した議員夫婦が逮捕された。

片やアメリカでは、首相の「盟友」トランプの目茶苦茶な言動が報道された。『ボルトン回顧録』の出版が差し止められる前に、そのサワリ部分をニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、ウォールストリートジャーナルの3紙が報じちゃったんですよね。

余りに惨めな発言のためか日本のマスコミでは殆ど報道されなかった一点だけ記すと、トランプは2019年6月に大阪で開かれたG20の夕食会で習近平主席に、ウイグル族を収容する強制収容所を建てるのは良いことだと伝えたそうだ。彼等は殆どがイスラム教徒だというのが理由らしい (HUFFPOST 6月18日の記事)。

仲良く一緒に落目の始まりかと予感される報道が同じ日に重なったのは、因縁としか言いようがありません。

哀愁の調べ わが心を慰む (17)


「初中級向けで大人の女性に人気」

と聞いて飛び付いたキャサリン・ロリン『ピアノの叙情詩』。
 (「哀愁の調べ わが心を慰む (13)」)

それでも、通して弾けるまで練習したくなる曲は4つか5つで、一応終了。
 (「哀愁の調べ わが心を慰む (16)」)

取り敢えずバッハに戻って手の届きそうな曲を練習しているのですが、5分か10分弾くと指が疲れてきて違和感を感じたりするので、すぐ休憩。その間にできることと言えば結局、YouTubeを覗いて何か魅力的な哀愁の調べが転がっていないか探すことくらいです。

それで最近、様々な歌や演奏のピアノカバーで、私好みの曲が幾つも入っているサイトを見付けました:

 Pascal Mencarelli
 
大抵の動画に「再生リストの全体を見る」と書いてあり、クリックすると更に沢山の曲が出てきます。例えば:

 Musiques de Films (映画音楽)
 Chansons Françaises (シャンソン)

それを全部ご覧になるのは相当時間が掛かるので、例の如く独断と偏見のお勧めです:

Serge Gainsbourg (セルジュ・ゲンスブール)

 Quoi
歌詞から察するに、狂ったような愛の歌らしい。

Joe Dassin (ジョー・ダッサン)

 Et si tu n'existais pas
 もしもキミが存在していなかったら 
  (ボクも存在していないだろう)

 L'été indien 
タイトルを英語にすると Indian summer。「晩秋・初冬の小春日和」、転じて「平穏な晩年」を意味するそうな。私は明らかに晩年ですが、電車や街中で美女を見かける度に心穏やかならず。とても平穏とは言えないのに、何故かこの曲が気に入ってしまった。

Eric De Marsan (エリック・ド・マルサン)

 Belle et Sébastien (L’Oiseau)
 映画『ベルとセバスチャン』から「鳥」
Belle [形容詞beau(美しい)の女性形] とあれば「美女!」と考えるのはボクの悪い癖でありまして、セバスチャンという少年が野犬と仲良くなって付けた名前でした。映画については、

 日本語吹替版の紹介

Saint Preux (サン・プルー)

 Tristitia (Insomnie Eternelle) 
トリスティティアは悲哀, 悲嘆, 憂愁などを意味するラテン語。括弧内を英語にすると Eternal Insomnia なので、全体を私なりに解釈すれば、悲哀が胸に込み上げてきていつまでも眠れぬ夜...
 
以上の内、QuoiL'été indien は、80年代に仏国に留学した時に気に入った曲で、久し振りに聞いて郷愁の念抑え難し。それ以外は新発見です。

それでは素敵なひと時をお過ごし下さい。

追伸 動画を開けると、

 ”For More informations on the sheet, please contact me by mail”
 (或いは同趣旨のフランス語)

とあってメールアドレスが記されており、申し込めば譜面を送ってくれます。自分でアレンジしたものは一曲4ユーロ、Paypal経由の送金です。

クレジット・カードを使うと「商品・サービスの購入」という形しか取れないので、手数料を少し上乗せする必要があります。私は少し余裕を見て、5曲15ユーロのところ20ユーロ送ってみました。手数料を引いて余裕があれば、6曲目を送ってくれるようです。ネットバンキング対応の口座をお持ちならば、「友人への送金」という形が選べて手数料が掛からないらしいです。

首相が省庁幹部人事を掌握したのは何のため?


官邸が省庁幹部人事を掌握した結果、官僚は専らその顔色を窺い、指示には逆らえなくなったと言われて久しい。

森友学園への公有地売却では官僚が公文書を改竄し、作業に携った末端の職員が自殺に追い込まれた。しかし、とにかく否定し通せば何とかなるという戦略で、首相は辞任も議員辞職も免れた。

加計学園の誘致問題では、学園経営のトップや地元自治体と官邸との接触に関して、うさん臭い事実が多々判明したのに、名前を取り沙汰された官僚達が知らぬ存ぜぬを通し、再び首相は逃げ切った。

「桜を見る会」の前夜祭に関しても、何百人という参加者の宴会費について、一人一人が会場のホテルと契約したのだなどという、まともな頭では思い付けない論理を振り回し、記録文書の違法廃棄まであったのに、結局逃げ切った。


官僚を意のままに動かす程の権力を手にして、首相はそれを新型コロナウイルスの感染拡大防止に少しは役立てたのだろうか。

皆さんご存知だから詳しいことは一々書かないが、PCR検査の件数その他様々な対策に関して、連日マスコミで批判されても、殆ど改善の様子が見られない。

どうやらネックは厚労省のようだ。基本的政策だか勝手なルールだか知らないが、一番迅速に動くべき省が余計な手間暇を作り出し、却って医療関係者や自治体の足を引張っている。

休業支援や一時給付金の配布についても、どこぞの官僚が面倒なルールを机上の考えで設定して、みんなが困っている。見るに見かねた自治体が、独自の支援策に踏み切っているくらいだ。


首相は今こそ、厚労省その他の幹部がもっと迅速に肝心なことを実行するよう、人事権を梃子に喝を入れたら良いではないか。

残念ながら、そんな気は無いらしい。色々と指示を出しているようだけど、後は官僚任せ。どんなにだらだら動いていてもお構いなしだ。医療崩壊寸前と言われても、今日明日にも支援が必要という家庭、今にも生活費が底を突きそうな人、休業が廃業に繋がりそうな事業者がどんなにいても、官僚達には何の影響も無いから、未だに前例踏襲とやらを優先しているとか。

こうして見ると、官邸が省庁人事を掌握したのは、安倍晋三がただただ首相の座に居座るためだったのか。在職年数最長とか言われていい気になるには役立ったというわけだ。

哀愁の調べ わが心を慰む (16)


突然ですが、電子ピアノの音が一つだけ出なくなりました。

パソコン・スマホの類は一切延長保証を付けずにやってきたので、こちらも付けてないと思い込んでいたのですが、購入先の島村楽器に電話したところ、五年の延長保証が付けてあるそうな。折角金を払って付けたのなら、利用しない手は無いと修理を依頼。

しかし、買ってもう二年と二ヶ月。南戸麻亜さんのアドバイスのお陰で (「哀愁の調べ わが心を慰む (1)」)、全くものにならなかったわけでもないし、もっと音の良い機種に買い替える機会かも、と思ったら空想が膨らんで… すぐにも目当ての機種の音を確かめに行き、納得できたら買っちゃおう、と考えました。

実行に移す直前にメーカーから電話があり、希望的推測によれば若く美しい女性が不具合の内容を尋ね、修理の日時を設定。当然、その人が修理に来るものと思いますよね。しかし実際に来たのは、60前後の如何にも温厚篤実そうなオジサン。彼の方も「ちっ、綺麗なお嬢さんかと思えば70過ぎの爺さんかよ」と心中ぼやいたに違いありません。それでも、鍵盤を一本一本外して行くような根気の要る作業をした挙句に、センサー一式取り換えますと、結局二時間余り仕事して帰りました。

それを見たら、折角直してもらったのにすぐ買い替えるなんて、このオジサンに申し訳ないという気持になった。一年前からぼちりぼちり復習している、『ピアノの練習 ABC』が八曲残っているし(哀愁の調べ わが心を慰む (11)同 (12))、せめてそれが終ってからにしようと考え直したのです。我ながらまともな思考が出来たものです。

もっとも、若く美しい女性が修理に来てくれていたら、延長保証が切れるまであと三年待つ気になっていたかも。だって、また故障したら行き掛かり上同じ女性が来てくれるわけでしょう。メーカーは、早く買い替えさせるためにオジサンを送り込んでくるのか。

いずれにしても、故障するまでは、二年と二ヶ月で買い替えるなんて考えもしなかった。修理してもらった以上、故障前と同じ状態に戻ったわけで、せめてもう一年か二年は使うのが当然です。それが待ち切れずに買い替えるなんて、幼児モードではないか。

でもコロナ禍の昨今、高齢者があと一年も二年も生きてる保証こそ無い。それに、書画骨董でもなければ...遊びでもないけど、ピアノで稼げるわけでない以上、道楽には違いない。道楽には金が掛かるものと、昔から相場が決まっている... と、思いは行きつ戻りつ。


それはともかく、新たに購入すべき機種について検索しまくっている内に、面白い記事に当り、「電子ピアノはピアノじゃありません!」と南戸麻亜さんに注意された意味が少し分ったような気がした。その時は、「何もそこまで言わなくても〜」と心の奥底で思ったのでありますが、記憶の限りで記事の趣旨を要約しますと、

「アコースティック・ピアノは自分で音色を作り出さなくてはならない。ところが電子ピアノは、鍵盤を押せば最高の音色が出てしまう。だから、プロ志望で自宅では電子ピアノで練習している場合、弾き方が雑に感じられる人もいる」

恐ろしいことであります。でも私の場合、年寄りの惚け防止を兼ねた楽しみですから、バカちょん式にいい音が出ちゃっても困りません。


さて先日、遂に発表会に行って参りました… 週一で通っている船橋の鍼灸の先生に、「Catherine Rollin の書いたピアノ曲のお勧め動画なんてどうでもいいから、あなたの弾いているところが見たい」と以前から言われていて、その度に「お聞かせできるようなものではございませぬ」と固辞しておりました。

ところがその後、「船橋駅と京成船橋を結ぶ通路にストリートピアノが置いてある。あれを使えば?」という話になり、先生と治療スタッフ合わせて四人の美女が聞きに来てくれると言うのです。私もいい機会だと思い、「哀愁の調べ わが心を慰む (13)」でご紹介した Catherine Rollin の二曲:

 「Lament (悲歌)
 「Moonlight nocturne
 
を選択。指定のテンポは無理でも何とか曲に聞こえる程度で、強弱・緩急まで入れて練習し直しました。しかし何せ通路です。春先の風は冷たく指が冷える。自宅の電子ピアノとタッチもペダルの踏み具合も違う。何より、見知らぬ通行人の視線が気になって、時々小指と薬指がアル中みたいに震える... というわけで悲惨な結果に終りました。

それでも私の人柄のせいでしょうか(冷笑)、鍼灸院の美女達は「素敵な曲だわ〜、カッコ良かったですよ〜」と喜んでくれました。あ〜恥ずかしい。

『出雲神話論』読みました


三浦佑之(すけゆき)千葉大名誉教授 (古代文学) 著、2019年12月1日発行。

出雲地方・出雲大社に家内ともども興味を持っていて旅行までしたので、『日経』の書評で見て早速読みました。講談社の単行本なら674ページ(但し最後の一割弱は補論三つ)、3960円。

最初は、相当なページ数だし、字が小さかったらど〜しよ〜と心配したのですが、幸いBookWalkerによる電子書籍版がある。珍しく紙の本より安く、BookWalkerのリーダーBN ReaderでもKindleでも3190円。

電子書籍でも立ち読みができるので、是非お試し下さい。最後の方までぱらぱら覗けないのが難ですが、その代り全674ページの内38ページと、かなり読める (「はじめに」から第一章「出雲とはいかなる世界か」第二節の2/3くらいまで )。

なかなか面白そうだし、僭越ながら文章もしっかりしている。結局購入して、暇に任せて読みました (もっとも、大体趣旨の分った後は、地名や神社に関する細々した記述の部分は、可能な限り飛ばしました)。

とにかく古事記神話というのは、神々の名前からして愛好者でもなければとても頭に入らないし、話の展開も細かいところになると入り組んで、なかなか筋が辿れない。その辺を素人でもついていける程度に整理し、明快に解説してあって感心しました。

通説或いは学界の多数派とかなり異る見解を持つと、著者自身何度も断っているので、その立場を要約している部分を引用します:
 (第一章「出雲とはいかなる世界か」
  第一節「出雲神話と古事記」)

今までの古事記研究におけるもっとも大きな誤りは、古事記を、日本書紀と同じく律令国家あるいは天皇家の列島支配を根拠づける歴史書として読もうとしてきたことだ。よく読んでみると古事記は、日本書紀とは違って律令的な世界観からは遠く離れて存在し、天皇を称揚するというよりも、天皇の側に殺され滅ぼされてしまった者たちへの親和性が強い。そしてその象徴的な語りが出雲神話だといえる。
 (中略)
現在、研究者のおおかたは、古事記も日本書紀も律令国家が編纂した歴史書で、日本書紀は公的、外向けのもの、古事記は私的で内向きのものと考えている。同じ天皇が二つのまったく性格の違う歴史書を編もうとする矛盾、その二重人格的な振舞いに向き合おうとしない。しかも、どう考えても古事記と日本書紀とはまったく性格も内容も別の書物である。それなのに、この二つの書物を双子のように「記紀」と呼ぶことに疑問も抱かず、日本書紀にも出雲神話は載せられていると思い込んでいる。異分野の研究者はともかく、古代文学研究者をはじめ歴史学者や考古学者まで、そのような立場に安穏としている限り、出雲神話を正当に位置づけることなどできるわけがない。(引用終り)

事実、出雲神話 (大国主命による国作り) 及び国譲り神話と呼ばれる部分を合わせると、『古事記』の43%を占めるが、『古事記』の25%に相当する出雲神話の大半が『日本書紀』には欠けているそうです。

「とても乱暴なまとめ方になってしまうが」と著者自身断っているが、要するに2,3世紀の頃に、

「日本海沿岸の一つの中心としてあった出雲は、ヤマトの勢力に制圧され吸収されていった。その歴史が神話化され、古事記が伝える出雲の繁栄と高天の原による制圧として語られたのが一連の出雲神話であった」

それ以外に特に記憶に残ったのは、

1)「国譲り神話」とよく言われるが、実は平和的な領土委譲ではなく武力制圧である。
 「国譲り」は1920年代から使われるようになった表現。天皇の譲位という穏やかなイメージを持つ語「国ゆづり」を借りて、「大国主命から高天の原 (つまりはヤマト勢力) 側への地上支配の移行が平穏に果された」ということを強調し称揚する意図があったのではないか。

2)出雲大社の創建
 普通、国譲りの代償として、大国主命のために高天の原側が建ててやったと解されている。しかしそれは誤りで、出雲大社は既に大国主命が自分の社殿として建ててあった。国譲りの代償として、それを今後もしかるべく営繕していくように求めたのだ。

3)『出雲国風土記』は何となく『古事記』の情報源のように思っていたが、むしろ『日本書紀』に近い内容らしい。


余談ですが、出雲観光協会の公式ホームページでは、出雲大社特集の記事が「縁結びの神様として名高く」で始る。また別の項目「女子旅で行きたいご縁の聖地」では「ステキな出会いを求めるなら、一度は訪れたい出雲大社」なんて感じ。神話の背景には、日本古代における出雲地方の栄光の歴史があるらしいのに、どうしてそれを謳わないのか一寸残念な気もするけど、島根県の人々には余計なお世話だと言われそう。

馬鹿の一つ覚え


トランプ大統領は、不法移民流入へのメキシコの対策が不十分だとして、6月10日以降メキシコからの輸入品全てに5%の関税を課すと発表。最大で25%まで引上げる積りだそうだ。

貿易赤字だって、サプライチェーンが世界的に広がって、各国間の依存関係が入り組んでいる現代に、関税引上げで解決できるとは限らない。

それが今度は、貿易とは何の関係も無いメキシコからの不法移民流入について、関税引上げで圧力を掛けると言う。メキシコが「挑発には乗らない」と言ったそうだが当然だ。

権力者の馬鹿の一つ覚えと言えば、江戸時代の犬公方がいる。自分が戌年だからって、民衆を痛め付けてまで犬を愛護する。トランプも、何かと言えば関税を引き上げて、それで自国の消費者がどんな迷惑を被ってもお構い無しだ。結局、自分の馬鹿さ加減を隠蔽しようとして、ごり押しするのかね〜。

敬語過剰:上品な言葉遣いの積り?


総務省事務次官による日本郵政副社長への情報漏洩。これに関する記者会見で総務大臣が、
 「当人は「大変申訳ないことをした」と仰っていました」
 「先輩・後輩の関係が背景にあるのではと拝察しております」
自分が更迭したばかりの、言わば自分の部下に当る事務次官、しかも不祥事を起した人間に「仰る」ですよ。また拝察とは「推察することをへりくだって言う語」(『大辞林』)なのに、問題の人間の心を推察するのに用いた。

2018年に起きた財務省事務次官のテレ朝・女性記者に対するセクハラ発言。これについて女性コメンテーターが、
 「世の中には、相手の女性がセクハラ発言を必死でかわそうとしているのに、構わず続ける方がいらっしゃるんですよね」

別の番組では、振込め詐欺の犯人について参加者の一人が:
 「あの方たちは...」

どうして
 「当人は「...」と言っていました」
 「...と推察しております」
 「構わず続ける人がいるんですよね」
 「あの人たちは...」
と言えないのか、不思議でなりません。

まさか情報漏洩した人間、セクハラ発言を続ける人間、振込め詐欺の犯人達に、尊敬の念を抱いているわけでもなかろうに。そう思って見ていると、気になる表現が次から次へと聞こえてきます:

 ◦ニュースキャスターが自局の政治部長に解説させるのに、 
 「後ほど解説のために政治部長に来て頂きます」
 ◦官房長官にとって大臣は言わば身内の人間なのに、
 「何々大臣には、これこれの発言は良くないと申し上げました」
 ◦政治家や経営者が自分の決断を紹介するのに、
 「何々と決めさせて頂きました」、
 ◦「世界の街角」みたいな番組で、
 「ニューヨークの方達は...していらっしゃいます」
 ◦放送大学の講師が「芭蕉という方は...」
 ◦交通機関やデパートで「...へお申し出下さい」
  (「申す」は謙譲語だから利用客に対して使うべきでなく、「係の者に仰って下さい」「係の者が承ります」などが正しい)
 ◦ある会合で司会者が参加者に資料を配り、 
 「...については資料を拝見して頂いて」
  (...については資料をご覧下さいという意味でしょうが、「拝見」も謙譲語)

などなど。

如何にも多種多様な敬語表現に見えますが、何度も耳にしている内に、これらを貫く共通の論理があるという仮説に辿り着きました:

 尊敬語や謙譲語としてではなく、
 丁寧表現として使っている。


不祥事を起こして更迭した相手に「仰る、拝察する」を用いた大臣、「続ける方がいらっしゃる」「あの方たち」と言ったコメンテーター、自局の政治部長に「来て頂きます」を使ったニュースキャスター、「...へお申し出下さい」というアナウンス、そしてあの巷に氾濫する「させて頂く」... いずれも、自分が丁寧なもの言いをしていることを強調したい余りの流用と考えれば、気持の悪さに変りは無いけど理解可能になります。

では何故そんなことまでして、丁寧な表現をしたがるのか。それはバブルの頃に原因がある、というのが仮説の続きです。1988年から91年までバブルの絶頂を挟んだ三年間、日本を空けていたので良く覚えていますが、バブルの前には冒頭に挙げたような言い方をする人はいなかった。しかし時期的にはその通りでも、バブルとこの話が一体どう繋がるのか。

タクシーの運転手と話していて、「あの頃は金が湯水の如く流れていて、結構いい思いをした」と述懐するのを聞いたくらいですから、ほんとに誰もがそれなりのお金持になったのでしょう。そういう中で、更にワンランク上の人間として、生れや育ちも良い人間として自分を演出したくなった時、どんな手立てがあるでしょうか? 

立ち居振舞いは一朝一夕には変えられないし、ブランド品もどうやら誰でもある程度のものは持ってるようだし... というわけで無意識的に、人より上品な言葉遣いに努めたのではないか。何と言っても名門旧家では、子供の頃からそれを躾けられるようですから。

そして、上品な言葉遣いの大きな要素であり、意識すればその日からでも何とかこなせるのが丁寧表現です。そこで何はともあれ、人より丁寧な表現を追い求めるようになった。

しかし... 日本人の会話はかなり昔から既に丁寧な言い方に溢れています。

 「です, ます」で文を締めても今や特に丁寧とは受け取ってもらえないから「ございます」を連発。
 「お金, お塩, お魚, お酒, お値段, ...」と何にでも「お」を付ける。
 子供には「お小遣い」を「あげる」。
 犬や猫にも餌を「あげる」。

という調子で、これ以上丁寧にしようが無いくらいです。つまり、本来の丁寧語はもう使い切ってしまったと言える状態にあったわけです。
 
それでも、どうしても人より一段と丁寧な表現をして見せたい。そう願った人達が、同格或いは目下の相手にも尊敬語を使うようになったのではないか。それでも飽き足りない誰かが、その場にいない知人の行為にまで尊敬語を使い、挙句の果てに「ニューヨークの方達は...していらっしゃいます」なんてことをやり出した。これはもう、尊敬語を丁寧表現に流用したとしか言えないでしょう。

驚異的アイデアと言いたいくらいですが、それがテレビで流れると、より丁寧な表現を求めていた多くの人が飛び付いた... 以上が私の仮説です。名付けて「流用説」、即ち尊敬語・謙譲語が丁寧表現に流用されている、というわけです。

しかしこうした流用に慣れきってしまうと、社外の人間に自分の上司の到着を告げるのに、「田中部長がいらっしゃいました」などと口走る例も現れる。丁寧な言葉遣いをした積りなのでしょうが、尊敬語と謙譲語の区別を弁えて「部長の田中が参りました」と言うことこそ、真の意味で上品な言葉遣いであり、育ちの良さも見えようというもの。まやかしの丁寧表現の氾濫は、やはりバブルの後遺症と言うべきではないでしょうか。

追伸。テレビドラマ『相棒』で杉下右京が誰かに聞き込みをする。相手の言葉の意味が分らない時、以前は「と申しますと?」なんて言っていたのが、最近「と仰いますと?」に直りました。勿論、私のブログが効果を発揮しただなんて、これっぽっちも思っておりません。制作関係者のお友達の知り合いの知り合いくらいが読んだかも知れませんけど。

(続き:「JR東日本をご利用下さいまして...」)

女性天皇に慎重な安倍首相


土俵の上、神社仏閣の特定の空間、カトリックの神父、天皇の位、... 未だに女人禁制の場が沢山ある。

これに対して、男女平等の原則に従い女性にも開放しようという話が出る度に、最後は「伝統云々」を持ち出して反対する人々がいる。しかし彼らの本音は、この世のどこかに男女平等でない聖域を残しておきたい、ということなのではないか。

首相は、社会における女性の活躍を願うと言い、大臣に女性を任命したこともあるが、天皇の位にだけは女性を認めたくならいらしい。5月2日付け『日経』によると、

「安倍首相は野党自民党の総裁時代、女性宮家を「男系で紡いできた皇室の歴史と伝統の根本原理が崩れる危険性がある」と批判した」

要するに「伝統」の威を借りて、「女は結局、男と完全に対等にはなれないんだヨ」と言いたいのだ。だったら、はっきりそう言えば?

「玲和」っていい響きだな〜


えっ、 違うの?

惜しいな〜... というのは表向きの感想です。

本音は、「令和」をひと目見て「命令の令?!」と叫び、安倍政権の問答無用の雰囲気まで思い出してしまいました...

説明によると、万葉集にある歌の漢文序:

 初春の令月にして、
 気淑く風和ぎ、
 梅は鏡前の粉を披き、
 蘭は珮後の香を薫らす
  (書き下し文)

から二文字を取ったとのことで、『大辞林』にも確かに

 令月:何事をするのにもよい月。めでたい月。

とあります。

しっかし... 熟語としてすぐ後に「月」が来ればともかく、「令」って普通そんな意味に使われているでしょうか。万葉集、それも歌に付いた漢文序はいざ知らず、大修館の漢和辞典『新漢語林』を引いても字義のところには、

 命ずる。いいつける。法令などを発布する。
 みことのり。君主の命令。
 のり。おきて。法令。布告書。
 いましめ。おしえ。教訓。
 おさ。長官。
 
とあって、漸く6番目に「よい。りっぱな。優れた」が来る。実際、現代の日常生活で「令」をこの意味で用いるなんて、ご覧になったことあります?

引用元の序文でも別に熟語として使われているわけではなく、離れた漢字を選んで組み合わせているのだから、こう申しては何でございますが、組み合わせゲームでしょう。

それなら同じ「れい」の音でも、

 玲 (透き通るように美しい様)
 麗
 澪 (みおつくしの澪)

など、もっと風情のある漢字があります。

「玲和」なんてい〜じゃないですか。そうだ! これからは間違えた振りしてこう書いちゃおう。

追伸 発表翌日の『朝日』は、

社民党・又市党首:
「命令の『令』であり、安倍政権のめざす国民への規律や統制の強化がにじみ出ている感が否めない」

などという発言を伝えている。

驚くのは『日経』の扱いだ。普通は与野党代表者の発言を一応並べて報ずるのに、今回は与党側の発言のみ、好意的な発言のみ伝えている。

ツイートの分析でも、昨日ちらっと検索しただけでも私と同じ反応があったのに、好意的な反応しか無いかの如く報じている。

明らかに、否定的反応を一切封じようとする意志が働いたとしか思えない。

昔々「てにをは」なるものがありました


と言いたくなる程、乱れる一方です。新聞・テレビで気付いたものを挙げると、

 大統領と直接話をできる (直接話が出来る)
 少年が同級生を暴行した (同級生に暴行)
 父親が長女を包丁で切りつける (長女に)
 大西洋を臨む港湾都市 (大西洋に)
 激しい雨が地面を打ち付けています (地面に)
 2020年は世界が日本を注目する (日本に)
 ...会議をアメリカは出席しなかった (会議に)
 国境検問所で入国手続きを対応する職員 (入国手続に対応)
 ケニアに日本が援助:既存の発電所を増設する形で (既存の発電所に増設)
 宮崎駿さん、辺野古移設を反対する基金の共同代表へ (辺野古移設に反対) 
 NFL選手の多くが国歌斉唱時に膝をついて、トランプ氏を抗議した (に抗議)
 欧州中央銀行は1月に決めた量的金融緩和を絡んで、条件付きでギリシャ国債を購入する意向 (量的金融緩和に絡んで)
 メルケル独首相は、ロシアが合意を守らない場合「我々は追加制裁の発動を除外しない」とロシアを警告した (ロシアに警告)
 漢字を読めない政治家 (漢字が読めない)
 岩崎を憎くて堪らない (岩崎が憎くて)

そして私の知り合いの多くが、「昔からチカンは女性の△△を触っていたわヨ」と言うのですが、私の記憶では、彼等は昔は間違いなく女性の△△に触っていた。

しかし個別の例について議論している限り、「△△に触る」と言う人もいれば「△△を触る」と言う人もいる、ということになって、水掛け論に終ってしまう。大きな傾向の中の一例として捉えなければ、事態の本質は見えないと思います。即ち、

 動詞の目的語らしきものは全て
 「を」で受けるようになった


2013年6月の記事「促進させる、加速させる、...:一体 誰にさせるの?」で、「漢字二語+する」という形の動詞について、自動詞・他動詞の区別に無頓着になってしまったらしいと書きました。促進する, 加速する, 再開する、などいずれも他動詞であったのに、そんなことにはお構いなく、促進させる, 加速させる, 山手線の運転が再開した、などと言うようになってしまったのです。

同じように、動詞に応じて上の例の括弧内のように使い分ける努力を、放棄し始めたんじゃないでしょうか。目的語らしきものは全て「を」で受ければいいのだ、という単純化。しかし私には、言葉に対する鈍感さと知的怠惰としか思えない。
 
このまま「てにをは」の誤用を放置していると、最後の「岩崎を憎い」も一般化していって、遂には「ボクは君を好きだ」なんて言うようになるかも知れない。しかし「君が好きだ」には、「自分の意志とは無関係に、自然に好きになってしまった」というニュアンスがあります。たとえ他の女に言い寄られてもボクの気持は変らない、というわけでお互いに嬉しい。それが、「君を好きだ」なんて言われるようになるんですよ、それでも良いんですか、お嬢さん!

言語は必然的に変化して行くものであって、社会の趨勢に任せるべきだ、という意見は勿論あります。しかし、言葉の意味が変化して行くのと、文法上の基本的要素の使い方が変化するのとはわけが違う。
 
追伸にあるように、「君が好きだ」の「が」も実は室町以降に少しずつ現れてきたそうですが、「に○○する」と言うべきなのに「を○○する」と言うようになったのはここ数年の現象であって、余りに急激です。言葉の変化はなるべく緩慢なのが望ましいわけで、そのためにも一国の言語には、最低限の規範意識が必要です。
 
それなのにNHKを含めたテレビや新聞は、むしろ変化を助長している。テレビで連日のように「少年が同級生を暴行した」と聞かされれば、「同級生に暴行した」が正しいと思っていた人も、影響されてしまうでしょう。NHKも今や、きちんとした日本語を維持して行く責任の一端を担っているとは思っていないらしい。
 
みんながこうした違いに気を配るのを面倒がっていたら、一体どうなってしまうでしょう。自動詞・他動詞の区別は無視する、「に○○する」と「を○○する」の使い分けも出来ない、「君が好きだ」がほんとなのに「君を好きだ」と言って何も感じない... こんな調子で行くと、日本語の繊細な綾が少しずつ失われていってしまうような気がします。
 
ま、私の目の黒い内はそんなことはさせない。絶対「△△に○○する」と書き続けてやる...

追伸その一。日本語の変化の早さは仏語と比べると歴然としています。
 上田秋声の「雨月物語」(1776) がもう注釈無しでは読めないし、福沢諭吉が明治維新後の1872〜76年に書いた「学問のすゝめ」さえ、現代語訳が出ている。
 それに引き換え、フランス啓蒙思想のヴォルテール(1700年代) やスタンダール(1800年代)など、いずれも現代仏語と基本的に変わらないから、注釈本など出ていない。勿論ヴォルテールの哲学思想を深く理解しようとすれば解説本が必要になるが、それは現代の哲学者でも同じ。
 日本は明治維新を経験したと言っても、フランス革命はそれに勝るとも劣らぬ激動です。やはり、「フランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一すること」を目的として1600年代に設立されたアカデミー・フランセーズが (ウィキペディア)、賛否両論あっても、明確な規範意識に則って辞書編纂等の活動を続けたのが貢献しているのじゃないでしょうか。

追伸その二。幸い、「は」と「が」を取り違えるケースは、日本語習得のまだ充分でない外国人以外、見当らない。最近はそれなりに日本語が話せる外国人が強烈に増えてきましたが、「は」と「が」はどうやら最後の難関らしい。母国語が何かにもよるかも知れませんが、これがきちんと出来たら基本は卒業と言っていいでしょう。

ことほど左様に、もの心付かぬ頃から日本語を習得した人間には無意識の内に正しい選択ができて、大人になってから勉強した人には難しいわけですが、それほど基本的な「は」と「が」の区別について、日本人の誰もが納得する文法的説明が未だに無いらしい。

実は恥ずかしながら『源氏物語』をぼちりぼちりと読んでいるものですから、あの時代にはどうもこの区別が無かった、と言うより今のような「が」の用法自体が無かったらしいと感じていたのですが、念のため岩波『古語辞典』巻末の「基本助動詞・助詞解説」(大野晋) の章を覗いたところ、次のような記述が出てきました:

 古来日本語では、動き・状態の主体を表す格 (主格) を明示する格助詞は存在しなかった。「花咲く」「山高し」というのが普通の表現であった。「花が咲く」「山が高い」という表現は一般的には江戸時代以後に確立した語法である。
 (中略)
「が」は本来、「我が国」「妹が家」のように連体助詞で、所有・所属を示し、体言と体言との関係づけをするのが役目であった。それが年月のうちに次第に変化した結果、室町時代以後、本来の日本語になかった主格の助詞としてはたらくようになった...

この後に具体的な変遷の記述がありますが、結局この辺の分析まで遡らないと、「は」と「が」の話に決着は付かないのじゃないでしょうか。

バチカンに同性愛の傾向あり


と断じた書物が出ました。既に『世界LGBT事情』(岩波書店) の邦訳もあるジャーナリストのフレデリック・マルテル氏の『ソドマ、バチカン中枢に関する調査報告』です。

『ソドマ、フレデリック・マルテル」で検索すれば幾つも記事が見付かります。しかし、20ヶ国余りで8言語に翻訳され、2019年2月21日に世界同時出版になったのに、邦訳は出ていないらしい。その上、同時期に法王庁で開催された、聖職者による性的虐待に関する特別会議はマスコミで大々的に報道されたのに、この本についてはテレビも『朝日』『日経』も触れようとしない。そこで敢えて仏紙『ル・モンド』(2月15日) の紹介記事を要約します。


『ソドマ』の題名は勿論、旧約聖書「創世記」にある、同性愛に耽ったために神に滅ぼされたという町ソドムから来ている。

カトリック教会はこれまで性的虐待ヘの対処の仕方を批判されてきたが、今後 性に関する言説が偽善的であるとの批判を免れまい。

著者はローマや南米を始めとする多くの国で調査を行い、話を聞いた相手は聖職者, 外交官, 政治家, ジャーナリスト, ゲイの活動家, 男娼, ローマの警官, スイス衛兵まで1500人に及ぶ。サン・ピエトロ大聖堂の聴罪司祭も一人含まれている。

著者によると、バチカン内部の雰囲気、そこで引用・参照される書物、人間関係などが、同性愛的印象をはっきり与えるのだそうで、カトリック教会の言動とは矛盾する。

と言うのも、カトリック教会は、同性愛を本質的にふしだらな行動と見なして断罪し続け、それは道徳上の主張の骨格を成すメッセージの一つだ。しかも世界各国で同性婚に反対し、エイズ感染を防ぐためでもコンドームの使用を禁じ、神父に対しては一切の性的快楽を斥ける独身を、頑固に課している。

但し著者は、カトリック教会の公式の立場と複雑な現実の間の、乖離を攻撃しているわけではない。むしろ、可能な範囲で自分のリビドーと折り合いを付けている聖職者達に理解を見せ、「神父であろうと枢機卿であろうと、同性愛者であることを恥じる必要は全く無い」と断言する。彼の論理は、個人的な状況を告発しようとするものでなく、存命中の関係者の名前は一切出さない配慮も見せている。

彼の描き出す世界は確かに偽善的だが、彼が問題にしているのはむしろ、それが歪んだ結果をもたらすことだ。そして歪みの最たるものが、性的虐待を行った人間達の保護である。

と言うのも、カトリック教会の総本山にいる同性愛者達は、自らの性の実態が教会の教えに背き、知られれば屈辱的な立場に置かれ、脅迫される危険さえ孕んでいるため、とにかく秘密を守ることを最良の防御策と心得ている。この秘密主義が、彼ら自身を保護するばかりでなく、性的虐待や金融犯罪を犯す者達をも保護することに繋がっている。自分自身の秘密が暴かれる危険を冒さずに、どうして犯罪者達を告発できようか。

著者によればこれこそが、未成年者に対する性的虐待が過去数十年の間、隠蔽されてきた原因の一つだ。何故なら、同性愛的傾向がカトリック教会内で黙認されていても、それが外に漏れることは絶対に避けねばならないからだ。

マルテル氏は調査を開始するまで、特にバチカンの奥に隠された秘密に通じていたわけではない。彼自身、自分の発見したことと、件の性向を持つ高位聖職者達の多さに驚いたと言う。彼等はバチカン内、いや枢機卿の集団においてさえ多数派を形成し、「強い力」と「影響力」を持ち、ゲイであることは「言わば規範の一部」を成すとのことだ。

このような「一般化した同性愛的社会性」は、圧力団体やネットワークを構成しているわけではないが、一つのシステムとしてそのルールはバチカン全体に及ぶ。ここにあるのは、「同性愛を好む或いは同性愛化した、巨大で、しかし中心の無い多形的な関係のネットワークであり、秘密と二重生活と嘘に支配されている」。

フランシスコ法王は「(同性愛者が主を求め、善意の持主なら) どうして私に裁くことができようか」と述べたことがあり、この本の出版により敵対者のグループに対して優位に立った。彼の側近に前任者達と同じくらいゲイがいるとしても、この本では「現代の法王の内で最もゲイ・フレンドリーであり、性道徳に取り憑かれている度合いが最も少ない」とされている。

このように「性道徳の問題に関して彼が自由主義的と見える」ことが、「(非常に同性愛を嫌っていて、しかしその殆どは実は同性愛好みの) 保守的枢機卿達がフランシスコ法王に仕掛ける戦い」の核心をなしているそうだ。

著者は、道徳を金科玉条の如く掲げるバチカン内の一部の人間について、フランシスコ法王がその二枚舌を婉曲に非難したケースを幾つも引用している。それを見ると法王は、「同性愛嫌いを公言する人間ほど、ゲイである可能性が高い」というマルテル氏の確信を共有しているように見える。

例えば、「硬直的態度の裏にはいつも何かが隠されている。多くの場合それは二重生活だ」と述べたことがある。マルテル氏によると彼の敵には、「同性愛嫌いを内面化し、矛盾に満ちた隠れ同性愛者」がごまんといるそうだ。

一方この著書は、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の在位期間に対して遥かに厳しい。正にフランシスコ法王に反対する者達が拠所としている時期だ。二人の法王の側近集団は、具体的な人名を挙げて非難されている。法王の個人秘書、在位中の法王庁国務長官 (首相相当)、その他法王庁の多くの重要人物、そして当時 性的虐待が大規模に行われた国々の高位聖職者達である。

マルテル氏によれば、この同性愛的側面が、過去数十年に亘るカトリック教会の歴史を理解する上で、本質的な鍵となる。具体的には、
 教会の道徳的立場、
 怪しげな金融不祥事、
 南米の一部の独裁政権との近しい関係、
 解放神学を掲げる神父達ヘの攻撃、
 同性婚を認める法律に対する闘い、
 バチリークスが暴く不祥事、
 ベネディクト16世の辞任、
 フランシスコ法王に対する攻撃、
等々だ。(要約終り)


結局のところ、完全な性的禁欲の掟が、そもそも無理を生じているのじゃないでしょうか。

それとも、不信心者の私でも神の御業としか思えないあの妙なる膨らみや窪みを相手にしていると、余りに嬉しくなってつい神様のことを忘れてしまう、男が相手ならその危険は無い... な〜んて考えていたりして。

追伸その一 「硬直的態度の裏にはいつも何かが隠されている。多くの場合それは二重生活だ」
 法王が仰るのだから本当に違いありません。

実は最近、女性アナウンサーのスカートがちょっと短いとテレビ局にクレームが来るらしく、毎日の楽しみが一つ減ってしまいました。ちっ。

これってもしかすると、私以上に楽しみにしている人が、それを悟られまいと逆に目くじら立てているのかも。確かに、内心は見たくて堪らないのに、無理に眼を背けているのはさぞかし苦痛でしょう。クレームは、「いっそのこと見せないで欲しい...」という切なる願いなのかも知れません。

追伸その二 「完全な性的禁欲の掟が、そもそも無理を生じている」などという推測をして、芥川龍之介にどやされるかも知れません。
 南画で有名な池 大雅は、玉蘭を妻に迎えても夫婦の交わりをしなかった、という伝説があるそうです。どうすれば良いのか知らないほど、世情に疎かったと解釈されているそうな。

この伝説について芥川が言っております (『侏儒の言葉』):

「大雅は玉蘭を娶つた時に交合のことを行はなかったかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにゐたと信ずるならば... 勿論その人はその人自身烈しい性欲を持ってゐる余り、苟くもちゃんと知ってゐる以上、行はずにすませられる筈はないと確信してゐる為であらう」

精神医学の書を眉に唾つけて読む


奉行「その方、精神医学の書は眉唾物だと申しておるのか」

町人「めっ 滅相もございません。ただ...」

奉行「ただ、何だ」

町人「フランスの哲学者ミシェル・フーコーが、『狂気の歴史』なるものを書きまして...」

奉行「ふ〜こ〜? 狂気のれきし〜? また懲りもせず紅毛の徒の説に惑わされておるのか。してその方、読んだのか?」

町人「いえ、手前には難し過ぎて... でも、文学評論から記号論まで幅広く活躍したロラン・バルトが、紹介文を書いております。これを読むと、精神病を癌や感染症などと同じような客観的対象と見なすことに、些か躊躇を覚えるのでございます」
  ..........................


精神医学系のテーマを扱うシンポジウムで、孫の世代の同業者と一緒に通訳することになり、何か良い入門書を紹介して上げたいと考えている内に、昔々読んだロラン・バルトの一文を思い出しました。

フーコー『狂気の歴史』は、タイトルだけでもお聞きになった方は多いと思いますが、精神医学の成立を分析した本らしいです。ヨーロッパでは狂人は、古代から中世に至るまで一種の神聖な存在、あるいは超自然への通り道と見なされていた。それがどのような過程を経て、17世半ばに犯罪者達と一緒くたに監禁されるようになり、その後さらに紆余曲折を経て現代の精神病患者となったのか。

私も同書を自分で読んだわけではなく、そのアプローチが如何に斬新なものであるかを解説したバルトの文章を読んで、多いに納得したのです。以下、その一節をご紹介します (この種の翻訳は最近特に、原文の用語や文構造を可能な限り尊重するようになって、何度も読み返さないと真意が掴めない。止むを得ず、趣旨の分りにくい箇所にかなり手を入れました)。


『狂気の歴史』の構想を任されたら普通は、ごく自然な発想として、コレラかペストの歴史の如く書くに違いない。過去数世紀に亘る科学的迷妄や、初期医学の暗中模索を描いた上で、現代の精神医学がもたらした知見を記述するであろう。

またこの医学的な歴史と並行して、倫理上の進歩の諸段階を紹介することになろう。ある時期に狂人が犯罪者達から区別され分離されたこと、フランス革命直後に医師のピネルが彼等を鎖から解放したこと、現代の精神科医は患者の言葉に耳を傾け理解しようと努力していること、などなど。

フーコーは、このような神話的な (つまり我々を安心させる) 見方を斥け、自ら言う通り、実証主義的アプローチを取らなかった。

彼はそもそもの始めから狂気を、疾病として記述すべき実体と見なさなかった。つまり、歴史を通して同一の実体が存在し、それに対する科学的アプローチだけが変化した、という風には捉えない。

実を言えば、フーコーは一度も狂気の何たるかを定義しない。狂気を認識の対象と考えれば、その認識の歴史的変遷を辿ることもできようが、フーコーにとって狂気はそのような対象ではないのだ。

敢えて言うならば、狂気とはそれについての認識そのものに他ならない。狂気とは病いではなく、時代によって変化する「意味」、それも恐らく時代によって異質な「意味」である。

フーコーは理性と非理性、あるいは見る者達と見られる者達が対をなしていると考え、狂気をもっぱらこの対に依存するものとして取り扱う。つまり、その対が変化すれば狂気も変化するという意味で、狂気は理性と非理性のなす対の関数というわけだ。

しかもこの構図において、見る者 (理性的な人間達) は見られる者 (狂人達) に対して如何なる客観的特権も与えられていない。理性的な人間の視線だけが客観性を持つ、などとは見なされない。従って、精神異常に関する現代の様々な名称を、過去に用いられた名称に当て嵌めようとするのも無益な努力である。
 (引用終り) 


以上の抜粋を含むバルトの一文を久し振りに読んで、精神医学の書物は眉に唾つけて読んだ方が良いのではないかと思うに至りました。

更に言うならば、最近いわゆる正常の範囲がどんどん狭くなって、一寸でも周囲の子供と違った言動をする子は、すぐに何とか症候群だとかレッテルを貼られてしまう。しかし、そういうレッテル自体が歴史的に変化してきたものであり、しかも医者や社会による認識の仕方の表現に他ならないとすれば、それほど客観的な実体ではないかも知れない...

注 バルトの一文と申したのは、評論集『批評をめぐる試み』(みすず書房) にある「両方の側から」です。一冊買えば新品5940円、古本でも3362円。たった二ページの抜粋をチェックするのには一寸高いので、都内某書店にてiPadで写真に撮ってきました。相済みません...

米国の非常事態とはトランプに他ならず


大統領選の候補者は納税申告書を公開するのが長年の慣習になっているのに、未だに開示しない。

父親の不動産事業から現在価値で4億1300万ドル(約470億円)もの資産を譲り受けていたのに、平気で「たたき上げの資産家」と自慢。

他にも、明らかに事実に反する主張をした例は数知れず。

外交・内政上の重要決定をツイッターで流すという、不謹慎極まりないことを始めて、今も続けている。

地球温暖化説は中国の陰謀だなどと世迷いごとを叫び、温暖化懐疑派の人間を環境保護局長官に任命。

温暖化防止のパリ協定から離脱。

エルサレムをイスラエルの首都と認定して米国大使館をテルアビブから移転。パレスチナとの二国家共存に決定的障害を作り出した。

欧米主要国が何年も掛けてまとめたイラン核合意から一方的に離脱。対イラン経済制裁を再開して、却って穏健派の大統領を窮地に陥れている。

自らの再選に不可欠な支持層を繋ぎ止めるため、公約のメキシコ国境沿いの壁建設に執着。議会が予算を通さないと分ると、国境地帯が安全保障上及び人道的危機にあると称して非常事態を宣言し、大統領権限で壁建設の資金を捻出しようとしている。

こんなヤカラが未だに大統領の座に留まっていることこそ、米国の非常事態でしょう。

JR東日本をご利用下さいまして...


また昔の記事のリサイクルかよ... と言われそうですが、その通りです。しかし最初に書いた時は、新幹線の車内でしか聞くことのできなかった「ご利用下さいまして、有難うございます」が、最近は総武線などでも聞こえてくるようになった。正しい表現が浸透して行くのに多大の貢献をしてくれるであろうと思うと大変嬉しいので、敢えて再掲致します。


久し振りに新幹線で名古屋まで行きました。そのせいか、東京を出て間もなくの車内アナウンスが逐一耳に入りましたが、何と「今日も新幹線をご利用下さいまして、有難うございます」と言っているではありませんか。「下さいまして」ですよ、実にすがすがしい気分を味わいました。

その列車の乗務員がたまたま私と同じ趣味の女性だった? 残念ながら、多分そういうことではない。読み上げるべき文言は決まっているでしょうから、会社としてこの表現を採用しているのです。何という勇気! そんな大袈裟な、と言われるかも知れませんが、最近はどこへ行っても「何々して頂きまして、有難うございます」ばかりです。下手をすれば「乗客に対する尊敬の念が足りない!」などと言われかねないご時世に、敢えて「...下さいまして、有難うございます」を選択した。これは一担当部署の考えではあり得ません。世の風潮に抗してでも敬語を正しく使おうという、経営トップの鶴の一声に違いありません。

やたら主語・動詞の概念を振り回すと谷崎潤一郎に叱られそうですが (「谷崎潤一郎と本居宣長と『源氏』」)、文法的にも「何々して下さいまして、有難うございます」が正しい。何故なら、
 何々して下さるのは相手であり、
 その相手に感謝の念を伝えたい、
のです。それに対して「何々して頂きまして、有難うございます」では、
 何々して頂くのは自分ですから、
 構文上は自分に対して感謝している、
ように聞こえる。しっくりしないのは当然です。

実は三年前にも敬語過剰について書きました(「敬語過剰:上品な言葉遣いの積り?」):

 ◦ワイドショーなどで「パリの方たちは何々していらっしゃいます」、
 ◦同じくワイドショーで振込め詐欺の犯人について出席者の一人が「あの方たちは...」、
 ◦政治家や経営者が自分の決断を紹介するのに「何々と決めさせて頂きました」、
 ◦ニュースキャスターが自局の政治部長に解説させるのに「後ほど解説のために政治部長に来て頂きます」
 ◦官房長官にとって大臣は言わば身内の人間なのに「何々大臣には、これこれの発言は良くないと申し上げました」、

などなど、如何にも多種多様な敬語表現に見えるが、これらを貫く共通の論理がある:

 尊敬語や謙譲語としてではなく
 丁寧表現として使っているのだ


そして、尊敬語・謙譲語を流用してでも丁寧な表現をしたがるのは、自分をできるだけお育ちの良い人間に見せたいという気持のせいだ... というわけで、続きは「敬語過剰:上品な言葉遣いの積り?」をご覧下さい。
 
さて、かく言う私も仏語通訳としてかの国から来たクライアントに同行すると、ついつい「今後も情報交換を継続させて頂きたいと存じます」などと言ってしまう。一旦世間に広まってしまった過剰な敬語、個人的には不愉快に思っていても、そのせいで自分のクライアントが日本側の目に横柄と映ることは避けねばならない。自分の好みを貫けない宮仕えの辛さ... 私事はともかく、みんなが「何々して頂きまして、有難うございます」と言っている世の中で、「何々して下さいまして、有難うございます」とは、なかなか言いにくい。

そういう事情ですから、新幹線車内の「ご利用下さいまして」は、何でもないことのように見えて実は、日本語の文法に則った感謝の表現を世間の風潮に抗して貫く大英断なのです。僭越ながら経営陣の見識に敬意を表します。もしかしたらこれがきっかけで、敬語過剰の流れが変るかも知れません。とにかくこれからも頑張って欲しいし、非力ながらもっと新幹線に乗って上げたいけれど、千葉在住で仕事の大半は都内の身ではね〜。それとも毎月京都見物にでも行こうか知らん...

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