あてもなき 夢想に耽らぬ 人やある

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夢と記憶喪失と脳科学 (続き)


私の友人に哲学に詳しい人がいて、フロイト理論の愛好者の考えには結構批判的です。しかし私が更に論じて、現在の脳科学で把握できる生理的現象もしくは変化からでは、到底意識の中身に手が届かない。となれば、無意識が意識の合間に錯誤行為として顔を出したところ、夢に様々な要素となって表れたところ、それらを手掛かりに無意識を探る、これは実に洗練された手法ではないか。フロイト的アプローチとは、「無意識を意識の側から探る試み」とも言えるのではないかと申したところ、次のようなコメントが届きました。

彼の了解が得られたので、御参考までに以下に掲載します。

実は、脳科学とか神経科学というのは脳と心の間をさぐるものとみなす人もおりますし (当然ですが、脳科学のすべてが脳と心の間を問題にしている訳ではない)、そう主張する人もいると思います。しかし、自然科学的には「こころ」というのはまったく定義できていないはずで、まともな自然科学者であれば、その点じゅうじゅう理解しているはずで、俗受けするような脳科学万能論であれ精神分析批判であれ、慎むものではないでしょうか。定義不能な対象を自然科学はどのように操作したり記述したりできるでしょうか。この点で、脳科学者は心的領域について語ることは、ブログにご指摘のとおり、現時点では極めてわずかなはずであります。しかし、精神分析や心理学などには、少なくとも自然科学的に確認しようのない概念や定義があります。夢は、生理的にも確認できるでしょうが、無意識になるとやっかいです。たとえば、ソシュールのラングという概念は、それ自体を取り出して、実体的には検証のしようがありませんが、二人以上の人間が言葉を使ってコミュニケーションしている時には、それを考え (想定せ) ざるをえない、そういう概念です。こうした概念は、歴史上いろいろと考えだされていたと思います。それは、そうすることで理性がとりあえず対象 (言語であれ心的現象であれ) を記述したり操作できると考えたからです。古くは神学などがそのいい例です。しかも、おうおうにして、それらは精緻な論理構成をもっていますし、独特の魅力も持っています。そして、19世紀後半から20世紀初めの頃にかけてのある文脈で、そうした精神分析的概念や言語概念が要請されたとわたしは考えている次第です。それは当時の実証主義や進化論の強い影響下にあった、時代の学問的傾向を根本的に批判する力を持っています (これはしばらくあとになって出てくるアナール派の歴史理論にもみられます)。もとよりわたくしは詳細を語る知識もありませんが、そうした思想史的コンテキストで、精神分析がどのような位置を占めるか、ほぼ答えはでているようにうすうす感じております。「無意識を意識の側から探求する」というのも、精神医学の歴史でフーコー流にいえば、狂気について理性が語ることを可能にする、ということでしょう。近代のある局面では狂気と理性は分断されていたのですから。ただ、19世紀的実証主義や決定論的思考とは別の次元で、狂気や精神疾患が、精神分析的手法とは異なった、自然科学的方法で記述される可能性はあるはずだとも思っております。

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