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ぴあの(16)ハイフィンガー奏法vs重力奏法
第二関節を曲げて、その先を鍵盤に垂直に当てている動画を見てびっくり仰天:
1日5分で10倍上手くなる指エクササイズ!!
と言うのも、『メトードローズ』『ピアノの練習 ABC』と独学でお稽古してきた経験からは、想像もできない指の形です。驚愕から立ち直り、手や指の形をキーワードに検索したところ、神戸大学の博士論文が出てきました:
ハイフィンガー奏法による日本のピアノ教育の系譜 : 明治末期から井口基成の時代まで
論文によればハイフィンガー奏法とは、ピアニスト中村紘子が著書『チャイコアスキー・コンクール』の中で初めて概念化したもので、日本で従来おこなわれてきたピアノ奏法を指す。彼女は、この奏法がもたらす数々の問題(弊害)に注意を促した最初の人物でもある。ちなみに、自身もこの奏法による典型的な教育を受けて育ったが、後にジュリアード音楽院でそれを徹底的に矯正されたという。論文を引用すると:
「中村紘子の説明によればハイフインガー奏法とは、
1. 手首を低めに保ち
2. 指先を曲げ
3. それをそのまま鍵盤から離れた高い位置に持ち上げ
4. ほぽ直角に近い角度で鍵盤の底まで打ち下ろす
のである。「専ら指先の力だけで鍵盤を強く打つ」もので、現代の一流ピアニストが皆、「指先で打つ」力ではなく、むしろ「上半身の重さを鍵盤にかける」ように肩から腕を使いながら弾いている(管理者注:重力奏法)のと対照的である。しかし日本では、非常に多くのピアノ学生がこの奏法で弾いており、ハイフィンガー奏法は日本人がピアノを弾く時の典型的な「型」ですらあると言える」(引用終り)
冒頭に紹介した動画の弾き方は正に、ハイフィンガー奏法だったのです。正直なところ最初は、ハイフィンガー奏法vs重力奏法なんて上級以上の雲の上の人達の話と感じたのですが、仮に冒頭の動画が正しい弾き方となれば、初心者の私にも関わる問題と受け止めざるを得ない。必死になって調べた次第。
論文では中村紘子による概念規定を元に、
ハイフィンガー奏法vs重力奏法
「井口vs安川」という二大派閥
欧米では100年前から重力奏法が一般的なのに、日本は何故逆なのか
などについて詳述してあるが、「おわりに」(p.113〜)に全体が要約されているので、抜粋しつつご紹介(読み易いように、適宜改行を施した)。
日本がピアノ教育を開始した当初、ヨーロッパから受け入れたのは、当時かの地で広く実践されていた指奏法であった。ヨーロッパではこの指奏法は、 既に十九世紀末に時代遅れとなりつつあったが、当時の日本の洋楽界がいまだ手探りの時期であったことを考えれば、ヨーロッパの最新の理論(重力奏法)がリアルタイムで輸入されなかったのは、むしろ当然であっただろう。第一章で述べたように、当時のヨーロッパにおいても、新奏法を理論的に教えていたピアノ教師は僅かであった。
しかしながらいかにも奇異に見えるのは、その後軌道修正の機会が何度もあったにもかかわらず、この古い奏法が日本においてこれだけ長い間温存され、しかも時代が下るにつれてますます極端化されていった面すらあると思えることである。つまり「指を高く上げて叩くこと」(ハイフィンガー奏法)が強調されるようになるのは、明治から大正にかけてのピアノ教育の黎明期ではなく、むしろ昭和に入る頃からなのである。
そして戦後になってもなお、時代に逆行するかのように、このハイフィンガー奏法による教育にはさらに拍車がかかり、「指を鍛える」のスローガンのもと、多くのピアノ学生がその「修練」に励んだのであった。
第一の理由として考えられるのは、「師匠の型を守る」という日本の伝統芸能の伝承形態との関係である。本論文の第四章でも述べたように、日本のピアノ教育においてはしばしば、弟子は自己のアイデアを打ち出すことを禁じられ、あくまで師匠の型を模倣することに専念する(させられる)のである。
そしてこのような絶対服従の師弟関係に慣れ親しんだ弟子は、常に師匠からの指示を待つ受身の状態が染み付いてしまい、一向に能動的な表現や工夫が出来ない状況へと陥る(筆者もそうした経験を持つ)。かくして、師匠から受け継がれた「型(この場合はハイフインガー奏法)」は、たとえ「悪しき旧式の伝統」であっても更新(あるいは批判)されることはなく、忠実に継承されていったのではあるまいか?
第二に、上の「型の継承」と関連して、ハイフィンガー奏法が「型」として実に機能しやすいという点も見逃せまい。手首を国定させ(=固定しさえすれば後はそれについて考えなくともよい)、ただ指を垂直に上下させる(=余計なことは考えずに一心不乱にそれに励めばよい)というハイフィンガー奏法の単純運動は、きわめてマニュアル化しやすい。 つまり「型」として弟子へ伝授することが容易なのである。
それにひきかえ手首や肘を固定させない重力奏法は、絶えず音楽の流れに応じて流動的にそれらを動かすことを要求する、いわば「型がない」奏法である。「マニュアル」で教える教師たちにとっては、 ハイフィンガー奏法は非常に都合がよい代物なのである。
第三に、「技術至上主義J ということも看過できない問題である 。第四章で筆者は、井口流の「根性主義ピアノ奏法/教育」の非合理的な側面を示唆した。しかしながらハイフインガー奏法は、ある面ではきわめて「合理的な」奏法であったかもしれないのである。
まず重力奏法を考えてみよう。指を自然に伸ばし、手首や腕を柔軟にして弾くやり方は、美しい音色で歌うことを可能にしはするが、「ミスなく弾く」という点では不利である。つまり手首を固定しないために、音色やフレージングといった音楽性は広がるものの、手首の支点を失うことで指は鍵盤を外しやすくなり、ミスのない演奏の確率は低くなるのである。
それに対して、手首を低く構えて固定し、狙いを定めて指を打ち下ろすハイフィンガー奏法は、立ち上がりの早い明瞭な音で、速いパッセージをミスなく弾くという点にかけては、明らかに重力奏法より勝っている。なぜなら手首(=支点)を固定させた上で、 指を上から下への垂直運動に限定して打鍵した場合、その「命中率」は先の重力奏法に比べ断然高くなるからである。
「音楽性 」とはあまり関係のない部分ではあるが、「バリバリ弾く(弾いているように聴かせる)」という点で、ハイフィンガー奏法はきわめて合目的的なのである。そして井口をはじめハイフインガー奏法を推進した人々は、教育の基礎段階において「柔軟な音楽表現」の領域を完全に切り捨て、一目瞭然で万人に分かる「(狭い意味での)技術」の部分にだけ絞って徹底的な訓練を施したという点で、究極の合理主義者であったのかもしれないのである。技術万能主義という点で、極めて戦後日本的な現象だったとも言えようか。
とりわけ技術習得という点で特徴的なのは、日本のピアノ教育における「練習曲」の偏愛である。井口基成が必須課題としたハノンと並んで、日本のピアノ学生が必ず与えられる練習素材が、ツェルニーである(例えば筆者は、そのツェルニーの練習曲に足掛け10年お世話になった)。
(中略)
このようにみてくると、「技術か音楽か」という点において、日本近代のピアノ教育は堂々巡りを繰り返してきたように思える。「音楽」こそが最終目的であることは分かっている。しかしピアノという楽器はあまりに難しく、パルナッソスの山へ至る道は険しい。従って「音楽を楽しむ」ためには、音楽を一旦後回しにして、まずは手っ取り早く技術だけを先に習得させてしまおうとする一種の倒錯が起きる。そして技術至上主義への批判が出てきても結局は、「しかし難曲を弾きこなすにはまずは技術だ」という最初の出発点に議論が戻ってしまうのである。
こうした悪循環にピリオドを打つために必要なのは、十人の生徒を十人ともコンサート・ピアニストに仕立てようとするのではなく、余裕をもって弾ける技術の範囲内でもっと音を味わい、もっと音楽を考え、そして楽しむ教育を模索することではないだろうか。
そしてまた、本論文で述べたようなピアノ奏法の歴史についての教養を教師自らが持つことも、これからのピアノ教育にとってきわめて重要であると思われる。ピアノ音楽史を「ピアノ奏法史」(ピアノの奏法の変遷の歴史)という視点から眺めることは、ある楽曲を弾く際の適切な身体の使い方(=演奏様式)を理解するうえで、非常に役に立つに違いない。
また、今なお日本で温存されているハイフインガー奏法について、 それが編み出された経緯、そしてヨーロッパではそれが既に100年も前に廃れたという事実を正しく認識することも、ピアノ教育の急務であろう。「技術の歴史への洞察」が「技術至上主義」を克服するための一つの鍵になるように思うのである。
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