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『源氏物語』54帖執筆順の謎:大野晋の解説書紹介
『源氏』研究では素人だった和辻哲郎が、54帖の執筆順を解明するのに貢献した、という話です。
彼は「第一帖桐壷から第二帖帚木に読み進んだときに違和感を感じる」と指摘した。更に、桐壷の巻では光源氏の女性関係について「藤壷が好きで葵の上をほんとには好きになれなかった」としか書いてないのに、帚木の巻の冒頭で彼がいきなり有名な好色人として登場するのは変だと感じ、そこから『源氏』は現在の順序で書かれたのではないだろうと推理した。1922年のことで、これに触発される形で阿部秋生が研究を進め、1950年に武田宗俊によって総仕上げがなされた...
というわけで、武田説を支持する大野 晋の『源氏物語』をご紹介します (岩波「古典を読む」シリーズ14。文中敬称略、論旨は全て同書の引用)。
武田説は和辻哲郎の直観的推理を具体的に裏付けたもので、要約すれば以下の通り。
第一に、『源氏』54帖は内容的に前後二つの部分から成る:
前半:(1) 桐壷から (33) 藤裏葉まで、
後半:(34) 若菜 (上) から終りまで。
第二に、前半33巻は更に二つの系統に分離できる:
桐壷・若紫等を含む17巻 (a系と呼ぶ)、
帚木・夕顔等を含む16巻 (b系と呼ぶ)。
第三に、実は最初にa系の巻々が書き継がれて一旦完結し、その後でb系が下の図式のようにa系に挿入された:
a系 b系
(1) 桐 壷
(2) 帚 木
(3) 空 蝉
(4) 夕 顔
(5) 若 紫
(6) 末摘花
(7) 紅葉賀
(8) 花 宴
(9) 葵
(10) 賢 木
(11) 花散里
(12) 須 磨
(13) 明 石
(14) 澪 標
(15) 蓬 生
(16) 関 屋
(17) 絵 合
(18) 松 風
(19) 薄 雲
(20) 朝 顔
(21) 少 女
(22) 玉 鬘
(23) 初 音
(24) 胡 蝶
(25) 蛍
(26) 常 夏
(27) 篝 火
(28) 野 分
(29) 行 幸
(30) 藤 袴
(31) 真木柱
(32) 梅 枝
(33) 藤裏葉
前半をa系とb系に分離すべきだと考える根拠は、主に次の三点です :
1)桐壷の巻では、筋書きを連ねていくばかりで個々の具体的描写も乏しく、筆は全く走っていない。ところが帚木の巻に入ると、作者は急に饒舌になり活気に満ちて語っている。内容的にも連続していない。更にb系の方が一般に緩急・強弱の付け方において、遥かに工夫が凝らされている。
2)前半からb系を除いたa系17巻だけで、一貫した欠ける所のない物語となっている。
3)a系の人物はb系にも登場するが、b系に初登場する人物はその後に来るa系の巻には登場しない。またa系で起きた事件はb系に影を落しているが、b系で生じた種がa系に戻って活動することは無い。
こうして前半が a, b 二系統に分離できるという前提の下に、それぞれを分析してみると、
1)a系は基本的に致富譚である。即ち、光源氏についてのある予言が最終的に実現し、その結果最高の繁栄に至る (最後には準太上天皇という高位に至るばかりでなく、壮麗な御殿を建造して関係した女性を全て住まわせる)。それが紫式部の並々ならぬ漢学の素養を背景に、『史記』『後漢書』の「本紀」のような年代記の体裁を取って記述されている。
2)b系は、a系が既に物語好きの人々の間で好評を得ている中で、「光源氏が完全無欠扱いされ過ぎている」という批判に応えるべく書いた、「失敗に終る挿話」群である。
3)男女の関係を捉える作者の見方が、a系を書いた時とb系を書いた時では異る。
4)a系は若い女性、b系は中年の男性、という具合に執筆時に想定した主たる読者層が異っている。
かくの如き事情ですから、前半を現在の巻数順のまま読むとa, bの二系統が入り混じることになり、作品の印象が混濁してしまう。従って前半については、まずa系を通読し、その後でb系を読み進む方が、作品の成立および当時の流布の実態に沿うことになる、というわけです (2014年8月の記事「源氏物語:和文の流れを大切にした原文テキスト」で、a系17帖、b系16帖をそれぞれ繋いだ原文テキストを提供しています)。
実は私、30前後までは漢文読下しの響きに惹かれておりましたが、言葉の意味が今一つはっきり掴めないのに気付いて次第に和文の方が好ましくなり、『方丈記』『更級日記』『蜻蛉日記』の順に注釈と睨めっこを続け、更に和文を読みたければ次は『源氏』かと思うに至りました。
しかし当時はまだ若うございましたから、男達が好き勝手に女性の品定めをすることで名高い帚木の巻などなじめそうもなく、しかもそれが桐壷の巻のすぐ後に控えているのが気になって、全巻通読にどうしても踏み込めなかった。そこにちょうど大野 晋の本が出て、これ幸いとお勧めの順に従ってまた注釈と睨めっこ、何とか終りまで辿り着きました。
ところで、男女の機微を語って現代にも通ずる恋愛の書と評されるこの物語、実際に読んでみると今で言う強...が至る所で行われて別にお咎めも無し。当の女性達も何が起こってもおのが宿世、前世における行いが悪かったのだと我が身を責めるばかり。
紫の上にしても、事情で祖母に当る尼に育てられていた十歳の少女を、尼の死後、実父に引き取られる寸前に源氏が盗み出して育てたわけですから、成長したからと言って今更どこに行けるわけも無い。それを強引に抱いちゃったという、そもそもの出だしからして言語道断の話です。「理想的伴侶として光源氏に添い遂げた」とのみ語る評論家諸氏には、腹が立ちます。
確か同じ大野 晋がどこかで、「『源氏』というのは、母系制社会が滅びゆく瞬間に女性達の放った最後の光芒とも言うべき、悲しい悲しい物語」といった趣旨を述べているのを読んで、漸く呑み込めたような筋立てなんです。にも拘わらず、和文の柔らかさには何とも言えぬ魅力があり、隠居の暁には宇治十帖だけでももう一度読み直してみたいと思っているのですが、どうなりますことやら。たとえ実現しなくても我が宿世 ...
後日談 (2014年1月)。以上の記事を書いた頃は、この物語の至る所で強...が行われて咎められもしないことが、気になって仕方なかった。当の女性達も、何が起こってもおのが宿世、前世での行いが悪かったのだと我が身を責めるばかり。男に都合の良いルールを内面化させる装置として、宿世の論理は驚異的な効果を発揮したわけです。
和文が好きだから読み続けたいが、それやこれやで筋立てにどうも馴染めないところがある... とずっと思ってきました。しかしある時遂に悟りました:「『源氏物語には、光源氏とその末裔達の女性遍歴が書いてあるように見えるけれど、そこに描かれているのは実は、彼等に翻弄される女達の生き様なのだ」(「『源氏物語』: 主役は光源氏にあらず」)。
そう考えると、強...も当時の女性が置かれていた状況の一要素であって、それ以上でも以下でもなく、黙って読み進むしかない。とは言っても、それで『源氏』がどうして現代にも通ずる恋愛の書ということになるのか、人生経験の浅い私には依然として分りません。評論家達もその点については、瀬戸内寂聴を例外として口をつぐんでいるような気がする。
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