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哀愁の調べ わが心を慰む(3)
フランスの作曲家
サン・プルー (Saint Preux)
と言われてもピンと来ないかも知れませんが、この曲はご存知でしょう:
「二人の天使」
(Concerto pour une voix
一声のためのコンチェルト)
イージーリスニング系の作曲家らしいのですが、非常に多作で素敵な曲も多い。でも日本では何故か「二人の天使」以外殆ど知られておらず、かく申す私もつい最近発見したばかり (連載 (17) の一番最後)。
私の好みと申しますか、ポール・モーリアやリチャード・クレイダーマンのようなただただ甘い旋律とは一味違います。とは言うものの、こういうものばかり聞いていると「バッハはど〜なったの〜?」と問い詰められそうな気がする...
Adagio pour Piano
Rhapsodie
Aria de Syrna
Harmonies
Andante pour Trompette
L’Archipel du Souvenir
(記憶の列島)
Concerto pour Elle
(彼女に捧げるコンチェルト)
初めて聞いた時は一瞬「二人の天使」の二番煎じかと思いましたが、こちらの方が遥かに魅力的。変な邦題「エレの涙」が付いていますが、それについては最後の注をご覧下さい。
さて「涙」で思い出したのですが、1950〜60年代アメリカン・ポップスの日本語カバー曲に「恋と涙の17才」というのがある。元はレスリー・ゴアの
You don’t own me (1963)
切ない恋心を思い起こさせる旋律ですが、歌詞は全然違う。そもそもタイトルが
「私は貴方の所有物じゃない」。
(この曲を含めて当時の欧米ポップスについては、次のサイトに曲ごとの解説があって驚異的に詳しい:
「竜馬のブログ わが青春のポップス」
「記事一覧」)
日本語カバー曲を作るに当って、ロマンチックな旋律から直感的に「恋と涙の17才」が閃いたのは許せるとしても、歌詞が原曲の趣旨を完全に裏切っていて、今更言ってもどうにもならないが腹立たしい。元の歌詞は上記リンク先の項目「恋と涙の17才」の最後に掲載されている通り、
You don’t own me, I’m not just one of your many toys
You don’t own me, don’t say I can’t go with other boys
Don’t tell me what to do
Don’t tell me what to say
Please, when I go out with you
Don’t put me on display,
.....
私は貴方の所有物でも、オモチャでもないの。
私は貴方の所有物じゃないの、
他の男とのデートはダメ、なんて言わないで。
私にああしろ、こうしろと言わないで。
私を見せびらかそうとしないで。
.....
といった調子です。このあとも「私は若いの、自由なの、生きたいように生きるわ」などなど、後年のウーマンリブやフェミニズムの運動を先取りするような文句が続きます。
ところが、つちやかおりのカバー曲 (同じ項目にある動画、湯川れいこ作詞) では何と、
ゆらゆら ゆれる夏が怖い
あぶなく 波にさらわれそう
今度が初めての 17の夏なの
これが初めてで 二度と戻れない
もう独りじゃ 生きていけなくなる
涙の意味が 判りそうよ
ああ、もうすぐ夜が わたし連れに来るわ
せかせる夕陽を 引き止めておいて
なぜ、なぜ、こんなに あなたが 好きなのに
少しさわられて 泣き出してしまうの
わからないの 動けないの でも ほんとに好きなの
NO、NO、まだ帰らないで、ねえ
あきらめないで
そんな、悲しそうな 目付きをしないで
わたし 砂に埋めて どうぞ 張りつけにしたら
キスして優しく 上から抱いてね
なぜ、なぜ、なんにも してくれないの?
原曲そのままの歌詞が女の子達に広まったら困る、という男性側の陰謀に湯川れいこは加担してしまったのでしょうか。
注1 原題 Concerto pour Elle そのままの「彼女に捧げるコンチェルト」で良いと思うのに、変な邦題「エレの涙」が付いている。
「...の涙」はともかく、仏語の三人称単数代名詞・女性形 elle (敢えて片仮名にすればエル) が何で「エレ」になるのか理解できない。わざわざ邦題を考える以上、仏語について最低限の知識は持っているのでしょうに。
注2 「恋と涙の17才」: 弘田三枝子と中尾ミエによるカバー曲はつちやかおりよりはましと言っても、原曲の心が微かに感じられる程度です。
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