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早期英語教育の問題点
英語の早期教育が、小学校低学年ばかりか幼稚園にまで及んできました。しかしそんなに早くから外国語の学習をさせて、子供が自分を取り巻く世界を把握していくプロセスに問題を生じないのでしょうか。なぜなら、常識的に考えてそのプロセスは母国語の習得と密接に絡んでいるからです。更に言えば、人間は言語を獲得して以来、言語を通してしか世界を把握できなくなっているからです。
普通の感覚ではむしろ逆なのは充分承知しています。この世には言語と無関係に様々なものが存在しており、人間は目に映ったもの一つ一つに名前を付けて、互いの意思疎通を図ってきた... これに対して、「人間は言語を通してしか世界を把握できなくなっている」というのは実感とかけ離れており、奇矯な思想に感じられるかも知れません。しかし言語学者・鈴木孝夫の『ことばと文化』(岩波新書) には、日本語と英語でものの捉え方の微妙にズレた例が幾つも解説してあって、「人間は言語を通してしか云々」が虚妄の説でないことを示唆しています (p.34以降):
「水」: 日常語としては冷たい液体を指しており、だからこそ別に「湯」という語がある。これに対して英語には「湯」に対応する単一の語は無く、しいて熱い状態であることを強調したい時は hot water と言う。つまり、英語では冷たくても熱くても water と呼ぶわけで、「水」と water が指しているものは完全には一致しない。
「唇」: lip に対応すると誰もが思い込んでいるが、lip は「唇」を含む口の周囲のかなり広い範囲を指している。upper lip などは、彼が調べた限りでは「鼻の下」に当る部分を指すことが多い。
「鼻」: 日本語では、人間でも象の場合でも「鼻」と呼ぶ。しかし英語では象の鼻は trunk と呼ばれ、木の幹などと一緒にされている。つまり「鼻」と nose は同じものを指していない。
などなど。
日本語・英語のこのようなズレは、新生児が周囲の世界を把握していくプロセスに無関係ではあり得ません。日本語の世界に生まれた子供は、「水」「湯」という語と共にそれが指し示すものを知る。そのとき子供は、「水」と「湯」を区別して考える日本語の論理に沿う形で、世界のある断片を把握したわけです。そうなるとこの子供にとって、熱くも冷たくもあり得る water という「もの」は、この世に存在しないも同然ではないでしょうか。同様に「唇」「鼻」... という形で世界の他の断片を把握した子供にとって、lip, nose,... という「もの」はこの世に存在しないも同然でしょう。一方、英語を母国語とする子供は、英語の論理に沿う形で water, lip, nose,... などの世界の断片を把握していくわけです。
目の前にあってその存在を疑いようのない「もの」でも、それを見てとるのに実は言語が介在しているとなれば、形容詞・動詞・抽象名詞の指し示すことについては推して知るべし。鈴木孝夫も『ことばと文化』の中でこう述べています:
「ことばというものは、混沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われる仕方で、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている」(p.33)
「人間は生 (なま) のあるがままの素材の世界に、直接ふれることはできない。素材の世界とは、混沌とでもカオスとでも言うべき、それ自体は無意味の世界であって、これに秩序を与え、人間の手におえるような、物体、性質、運動などに仕立てる役目を、ことばがはたしている」(p.40)
正に「言語を通してしか世界を把握できない」のであって、以上を敢えて私なりに表現しなおせば、茫漠として何も見分けられない混沌そのものに、言語によって無数の切れ目が入れられ、そこで初めて、事物の判別できる世界として我々の目に映るようになる。そしてその切れ目のはいり方が正に、日本語・英語で大きく或いは微妙にズレている、ということでしょう。
中でも注目すべき差違として、英語の一人称代名詞 I に対応する日本語は、あるように見えて実は存在しない(『ことばと文化』p.129以降)。
何故なら、実際に人と話をする時には、相手に応じて自分のことをオレ, アタシ, ボク, ワタクシ, ... などと言うし、子供に対しては自らをパパやママと言い、教師は生徒に対して自らを先生と言ったりする...。というわけで、相手と自分の上下関係その他を想定しない「無色の私」を指す語は、日本語には存在しないのです。これは自他についての意識のあり方に関わることであり、自我の形成にも影響せざるを得ないでしょう。
その自我について一つ引用すると (注1参照)、
「自我というのは単に家族の中で形成されるとか、あるいは要するに閉鎖的な形で独立して形成されるのではなくて、あらゆる社会制度の成り立ちと絡んで、言語という社会的なものとの相関関係の中で形成されていく」
子供は幼児期を家庭で過ごす間に自我が形成され、それから幼稚園や小学校で他の児童と接する中で社会化される、という風に一般には考えられているようです。しかし実は、両親や近親者を通して母国語を習得する中で既に社会的存在として生き始め、そのプロセスはその後も自我の形成と密接に絡む形で進む、というのです。言語そのものが社会の構成要素にして反映であるからです。
結局、子供の世界把握と自我形成と社会化は母国語を中心にして三つ巴えで進行するのであって、日本語と英語の違いは語彙の対応を遥かに越える次元の問題と言わねばなりません。
日本語を母国語とする子供が、この三つ巴えのプロセスが基本的に完了しない内に英語の学習など始めれば、日本語を通して把握されてきた世界が微妙に揺らぎ、自我のあり方、他者との関係のあり方にも影響が出るでしょう。
現実に、早期英語教育推進派からすれば理想とも言えるバイリンガルや帰国子女の一部に、肝心の日本語が不確かだったり精神的に不安定な例が見られるそうですが、必然的な成り行きと言わざるを得ません(当の子供達には誠に気の毒な限りです)。
となれば、「とにかく大人になって英語が喋れないと困る」という理由で、どう考えても自我が確立されているとは思えない幼稚園や小学校低学年から英語を学習させようというのは、余りに底の浅い議論ではないでしょうか。
注1 「人間は言語を獲得して以来、言語を通してしか世界を把握できなくなっている」:
勿論、私が思い付いたことではありません。言語学者・鈴木孝夫も実質的に同じことを言っていると思いますが、私は仕事で「ドグマ人類学」をかじった際に初めてこの説に出会いました。「ドグマ人類学」は従来の人類学とは全く異る発想に基づく理論で、法制史及び精神分析の専門家ピエール・ルジャンドルが構想し現在も形成途上にあるのだそうです。
西谷修氏の解説があります:
「ピエール・ルジャンドルとドグマ人類学」
続き:「空虚に因果の鎖を留める」
注2『ことばと文化』には他に、英語の動詞 break, drink について、日本語の「割る、壊す」や「飲む、呑む」と比較対照した分析もあります(p.6 以降)。また鈴木孝夫『日本語と外国語』(岩波新書) には、人間が言語を介して世界を把握している顕著な例として、色彩の捉え方の違いが詳述されています。日本人は太陽を赤いと感じているが、西洋人は同じものを黄色と感じている... など。
注3 教育再生懇談会が2007年5月26日に出した第一次報告では、小学三年からの英語教育導入を提唱するに当って「真の国際人になるには、英語力だけでなく、日本のことをよく学び、国語力をしっかり身に付けることが大前提」という但し書きを付けています。しかしこれは結局、「小学校低学年で英語学習を始めても、中・高・大学の間に日本語その他の涵養に努めれば充分」と考えているのであって、人間と言語を結ぶ本質的関係について余りに無頓着です。
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