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  1. 2008/08/31 原音尊重 真夏の怪
  2. 2008/08/11 『ファンジニ』 雑感
  3. 2008/07/17 寝ても醒めても 『ファンジニ』
  4. 2008/07/01 『ファンジニ』 と韓流サウンドトラック
  5. 2008/06/22 夢と記憶喪失と脳科学 (続き)
  6. 2008/05/14 夢と記憶喪失と脳科学
  7. 2008/04/10 時の流れが実感できる年表作成法
  8. 2008/03/27 野の花に開眼の記
  9. 2008/03/19 iMac購入顛末

原音尊重 真夏の怪

八五郎 「おい熊さん、ソークラテースって誰や?」
熊吉 「さあな。一体どこでそんな名前を聞いたんだ?」
「それがな、岩波書店から今度 『ギリシャ喜劇全集』 が出るつう広告見たんだが、そこに、ソークラテース刑死との関連が取り沙汰される云々だって」
「お前も鈍いな、八つぁん。ギリシャでソ...なんとかの刑死と言やあ、ソクラテスに決まってるじゃないか」
「何だ、ソクラテスかいな。そんなら、何でそう書かんかいな」
「いや、原音尊重とか言うから、ソークラテースの方がギリシャ語の発音に近いと言いたいんだろう」
「でもさ、カタカナで書く以上、日本語の中で使うためじゃねえか。一旦読み易い形で定着した名前を勝手に変えて、わしみたいに学の無いもんをまごつかせて、何が面白いんかね」
(声をひそめて) 「ここだけの話だがな、ひょっとすると、内容でほんとに新味のある業績を出せない研究者が、こんな形で新奇さを衒おうとしてるのかも知れんぞ...」
「え〜ッ 嘘だろ熊さん。大学の先生達がまさか、そんなセコいこと考えるまいて」
 .......................

暫く前から原音尊重と称して、ギリシャで定着しているものを一研究者の好みでギリシアと書き、イスラムをイスラーム、リビドーをリビードと書くようなことが流行りだして、苦々しく思っていたのですが、今度ソークラテースと書いてあるのを見て、遂に堪忍袋の緒が切れました。

一旦日本語の中でソクラテスと定着した以上、英語の philosophy を哲学と訳して定着したのと、どうして同じに考えれられないのでしょうか。ちなみに英語では、花の都パリを平気でパリスと読んでいるし、フランス語では

  ロンドンは Londres (敢えてカタカナにすればロンドゥル)
  トリノは Turin (テュラン)
  アリストテレスは Aristote (アリストートゥ)
  聖アウグスティヌスは Saint Augustin (オーギュスタン)
  バイエルンは Bavière (バヴィエール)

等々、異国の固有名詞を、自国語の音韻システムで発音し易いように変形して平気なんです。と言うより、自国語の中で使おうとする以上、それが当然じゃないですか。大体、ギリシャで定着しているものを今更ギリシアと書き、イスラムをイスラーム、リビドーをリビード、ソクラテスをソークラテースと書くことに、一体何の意味があるんです?

 

『ファンジニ』 雑感

今回 (8月10日) は深刻ではあるが非常に地味な話の展開で、何しろ前回にもの凄い事件が起こったのだから無理もない、と思って見ていたところが、最後の数分になって意表を突いてきました。しかも来週はどうやら嬉しい気分が味わえそうな予感... な〜んて、予告編が言っているのですから、間違いありません。そう言えば、よくある連続ドラマの切り方って、次の瞬間には大変なことが起りそ〜っていうところで切って、翌週まで気を引こうという魂胆がありありです。しかし 『ファンジニ』 では毎回、話の展開にある意味の区切りをつけた上で、更に次回に期待を持たせていて、そのせいか余韻が後々まで残り、寝ても醒めても... ということになるんです。

...とまあ、奥歯に物の挟まったような書き方をしておりますのは勿論、まだ御覧になっていない方達を尊重してのことにございます。と申しますのも、暇つぶしに 「ファンジニ」 をキーワードに検索していたところが、誰かが 「最後はこうなって云々」 と書いているのが目に入ってしまって、気が付いた時にはもう後の祭。ちっくしょう、これを見ずに最後まで楽しみたかったと、実に悔しい思いをしました。ですから私も、そういうことだけはしまいと、我慢しているわけでございます。

それに私の知っているさるお方が、「韓流ドラマの 『ファンジニ』? 知らないわヨ」 と仰るのですが、私がここで細々とブログを紡いでいるなどご存知ないので、7月1日付の最初の記事だけワードファイルにしてお送りしたわけです。するとそのお方が仰るに、

『美しき日々』 終了後は韓流ドラマに目もくれなかったオマエが、それ程までに言うのならと、テレビの番組表を必死で調べてみたところが、NHKのBS2でやっていることが分った。しかしマンションの関係でアンテナが立てられないので、見られない。話の様子では、一旦見始めたら自分もハマりそうだから、難を逃れられて却って良かった。

というわけです。確かにこのドラマは現在BS2で放映されています。しかし、自分の家ではBS2が見られないからハマる危険からも逃れられる、などというのは甘い甘い考えにございます。と申しますのも、人気沸騰につきこの秋からNHK総合で放映することになった、との噂が流れているからでございます。

それにしてもこの有名チャンネルはですよ、週一の連続ドラマを放映するというのに、しょっちゅう時間帯が変って、録画設定の際に 「毎週日曜、午後9Hから10Hまで」 などという形でセットしたら、何回となく見逃すこと必定であります。8月10日は夜の10H - 11Hでしたが、もうそれが本来の時間帯なのか、いつもは 9H - 10H なのが変更された結果なのか、分らなくなってしまって、これはあながち私に認知症の兆候が現れたせいとも言えないわけであります。

追伸。8月17日の放映はキャンセルです。一週間楽しみにしてきたファンの気持を何と心得ておるのか!

寝ても醒めても 『ファンジニ』

ファンジニと若き高級官吏、互いに相手を心底愛しているのがひしひしと伝わってくるのに、口では、もっと大切な使命のためには愛など犠牲にするしかない、みたいなことばかり言っております。そこが歴史物の有利なところで、余りに気高い科白でも嘘っぽく聞こえません。もっとも男の方はやはり我慢が出来ぬらしく、たとえ世間の壁にぶつかっても添い遂げてみようではないかと迫りますが、女は 「そんなの夢物語よ」 と冷たく突き放します。どうしてこーゆー時にいつも、女は冷たい態度が取れるのでしょう... 

同じ韓流でも現代ものでは、ちょっとした時間差で二人がすれ違うようなシーンが多々あり、「ナニこれ、脚本家の胸三寸じゃないの」 と白けてきますが、歴史物は正に現代ではちょっと口に出せないような科白をちりばめることで、小細工をしなくてもドラマを盛り上げられる、ということらしいです。今回 (7月13日) だって、男が未練を断ち切って都に帰ろうとする渡し舟の場面でてっきり、数分の差で二人は悲恋の別れと思いきや、結局男はその地に留まることになり、一緒に漢詩を書いては鑑賞し合ったりじ〜〜っと見つめ合ったり。そのくせ一緒にはならないなんて、あ〜も〜何て禁欲的なの!

ところでファンジニには、まだ若いのに妙に渋い顔立ちの青年が仕えていますが、これがまた武芸の達人で、既に一度ならず彼女の窮地を救っています。夜となく昼となく彼女を見守っているのですから、その色香に心の動かぬはずは無いのに (と思うは私がリビドー的人間だからか知らん)、徹底して無表情のまま、ひたすら彼女に尽しております。この青年が本筋に絡んでこないのは不思議なことや、と思っていたら案に違わず。

ある時、書庫で一冊の詩集を読んでいるところを人に見られ、読み書きなど出来ませぬと言っても、もう後の祭り。見咎めたファンジニの母の後見人らしき中年男によれば 、その詩集は権力を愚弄しこの世の中を嘆く言葉で溢れていて、今でも表立って読むことは御法度の書物です。「このような詩集に読み耽るとは、お前は一体何者だ!」 と問い詰められても、「名も無き放浪の身にございます」 と答えるのみ。

彼もこれで追い出されてしまうのかと思えば意外や意外、同じ中年男がファンジニの母にこう語ります:「あの詩人に精通しているならば、並の者ではないはず。なのにあのように方々を渡り歩いているところを見ると、幾多の権力争いや謀反に巻き込まれ、犠牲になった人間の息子であろう。身を立てるに充分なだけの学識と身分があっても決して世間に戻れぬ者、そんな者こそミョンウォルの伴侶に相応しいと思うのだが」。

そしてこの二つの場面の間に、青年が深夜、林の中で剣の修練をするところが出てきます。疾風が木立を駆け抜け、舞い上る無数の木の葉が月の光を受けて風に漂う、その風に乗らんとするかの如く走りつつ剣を振る姿が、実に秀逸な映像に仕上っていて、何度見ても見飽きません。

この調子だと結局、いずれ出るDVDを全巻Amazon.comで購入するしかなくなるかも。

『ファンジニ』 と韓流サウンドトラック

一月ほど前の日曜夜10時台、暇に任せてテレビをザッピングしていたところ、あるチャンネルでしきりに 「キーセン」 だの 「水揚げ」 だのと繰り返しております。一昔前には 「キーセン観光」 がマスコミの槍玉に上がりましたし、「水揚げ」 も良い子の皆さんが見ている可能性のある時間帯に連呼すべき単語とも思えません。チャンネルを見ると誰もが知る有名チャンネルで、『ファンジニ』 という韓流ドラマでした。

こんな番組、社会の公器に流していいのかな〜、と思っている内に、実に綺麗な旋律の曲が流れてきて、ストーリーはともかくサウンドトラックのCDを直ちにAmazon.comに注文しました。CDは届いたけれど、もう一回くらいドラマを見るかと思って見ている内に、段々面白くなって、今や一話も欠かさずです。

キーセンになるべく修行に励む純真な娘と貴公子が偶然恋に落ちるも、周囲の執拗な妨害にあって仲を引き裂かれ、遂に貴公子は病死。韓流ドラマっていつも、最初にどかーんと大事件が起こるんですよね。

それから四年、今や娘は貴族・富豪が競って求めるキーセンですが、純真な乙女の面影は微塵も無く、世の中に対する怨念を心の底に秘めて、妖艶にして氷のごとく冷たい美女に変貌しています。そこにまた王族の青年やら高級官吏やらが絡んで、只今進行中ですが、二派に分れたキーセン集団の頭二人が、脇役として異彩を放っております。

ファンジニの所属する派の頭は妙に四角い顔をしていて、私でも似顔絵が描けそうな感じです。これが若い二人の仲を裂いた張本人で、徹底してシニカルに生きているように見えますが、どうやら舞の奥義を誰かに伝えることにだけは人生を賭けている気配。もう一方の頭はと言えば、舞の芸は甘んじて四角い方に一歩譲っておりますが、心持ち丸顔の美形で策略好み。

この二人、お客の前ではもちろん最上級の丁寧語を駆使していますが、お互い同士や弟子達に対しては江戸時代の侍風の口調で、これがまたこたえられません。例えば心持ち丸顔の美形が弟子を叱咤して、「何をたわけたことを申しておる! 私に仕えて何年じゃ? 未だに物事の本質を見抜けずにおるのか!」 などと言います。この二人が女性ながら侍言葉を操る、その口調が絶妙で、日本語訳も完璧なら声優の芸も見事です。

それにサウンドトラックが何ともロマンチックな旋律に溢れています。だいたい韓流ドラマでは、必ず一つか二つ美しい曲が入っています。日本のドラマもザッピングする内には結構見ますが、どういうわけか、一度耳にしただけでCDを買いたくなるような曲に、出会ったことがありません。これは世界の七不思議の一つじゃないでしょうか ... それはともかく、『冬ソナ』 も、あのヨン様とか言われている俳優が呆けた顔して 「ボクは一体誰なの?」 と呟く場面を見て以来、馬鹿馬鹿しくなって止めましたが、サウンドトラックのCDだけは買いました。他にも 『バリでの出来事』 『マイガール』 『天国の階段』 等々、 ドラマは一度か二度見ただけでCDを買いました。例外は今回の 『ファンジニ』 と 『美しき日々』 です。ことの序でに、『美しき日々』 では跳ねっ返りの生意気な娘を演じたイ・ジョンヒョンが、実はごく優しい表情をした可愛い子ちゃんで、しかも歌って踊るその力量には舌を巻きました。しかし、彼女の曲で一番気に入った 「A Midsummer Night Dream」 が、CDしか見付かりません。あの妖しく切ない旋律を歌いながら彼女が踊っている動画、誰か知っていたら教えてくれません?

夢と記憶喪失と脳科学 (続き)

私の友人に哲学に詳しい人がいて、フロイト理論の愛好者の考えには結構批判的です。しかし、脳科学で把握できる生理的現象もしくは変化からでは、到底意識の中身に手が届かない以上、意識の合間に錯誤行為として顔を出したところや、夢に様々な要素となって表れたところ、それを手掛かりに無意識を探る、これは実に洗練された手法ではないか。フロイト的アプローチとは、「無意識を意識の側から探る試み」とも言えるのではないかと畳み掛けたところ、次のようなコメントが届きました。

彼の了解が得られたので、御参考までに以下に掲載します。

実は、脳科学とか神経科学というのは脳と心の間をさぐるものとみなす人もおりますし (当然ですが、脳科学のすべてが脳と心の間を問題にしている訳ではない)、そう主張する人もいると思います。しかし、自然科学的には「こころ」というのはまったく定義できていないはずで、まともな自然科学者であれば、その点じゅうじゅう理解しているはずで、俗受けするような脳科学万能論であれ精神分析批判であれ、慎むものではないでしょうか。定義不能な対象を自然科学はどのように操作したり記述したりできるでしょうか。この点で、脳科学者は心的領域について語ることは、ブログにご指摘のとおり、現時点では極めてわずかなはずであります。しかし、精神分析や心理学などには、少なくとも自然科学的に確認しようのない概念や定義があります。夢は、生理的にも確認できるでしょうが、無意識になるとやっかいです。たとえば、ソシュールのラングという概念は、それ自体を取り出して、実体的には検証のしようがありませんが、二人以上の人間が言葉を使ってコミュニケーションしている時には、それを考え (想定せ) ざるをえない、そういう概念です。こうした概念は、歴史上いろいろと考えだされていたと思います。それは、そうすることで理性がとりあえず対象 (言語であれ心的現象であれ) を記述したり操作できると考えたからです。古くは神学などがそのいい例です。しかも、おうおうにして、それらは精緻な論理構成をもっていますし、独特の魅力も持っています。そして、19 世紀後半から 20 世紀初めの頃にかけてのある文脈で、そうした精神分析的概念や言語概念が要請されたとわたしは考えている次第です。それは当時の実証主義や進化論の強い影響下にあった、時代の学問的傾向を根本的に批判する力を持っています (これはしばらくあとになって出てくるアナール派の歴史理論にもみられます)。もとよりわたくしは詳細を語る知識もありませんが、そうした思想史的コンテキストで、精神分析がどのような位置を占めるか、ほぼ答えはでているようにうすうす感じております。「無意識を意識の側から探求する」というのも、精神医学の歴史でフーコー流にいえば、狂気について理性が語ることを可能にする、ということでしょう。近代のある局面では狂気と理性は分断されていたのですから。ただ、19世紀的実証主義や決定論的思考とは別の次元で、狂気や精神疾患が、精神分析的手法とは異なった、自然科学的方法で記述される可能性はあるはずだとも思っております。

夢と記憶喪失と脳科学

聞きかじりの知識で恐縮ですが、人間の大脳皮質にはニューロン (神経細胞) が約140億個、ニューロン同士の接触点であるシナプスはニューロン一個当り数百 〜 数万個あります。大脳皮質1mm3 中にニューロン約10万個、シナプス約10億個の割合だそうです。ニューロン・ネットワークの途方もない複雑さが、幾らか想像できます。これらのニューロンがシナプスを介して互いに情報を遣り取りするメカニズムも、生化学的に解明されている ...

という調子で、現代の脳科学の成果には、素人が見ても目を見張るものがあります (立花 隆『脳を究める』など)。しかし... いざそこから意識や思考という領域に入ろうとすると、何とも歯がゆい状態です。PET (陽電子放出断層撮影) だの SQUID (超伝導量子干渉計) だのと、先端技術の粋を集めた機器が開発されているそうですが、それで何が分るかと言えば所詮、被験者に何か質問した時に脳のどの部位で糖代謝が活発になるとか、暗算をさせた時に特定の部位から特殊な脳波が検出されるとか、そんなレベルに留まっているようです。その癖、精神分析を疑似科学と断じたり、夢にそもそも意味のあることを否定するなど、精神分析的アプローチを一蹴するのが脳科学者の一般的態度であって、どうも納得いきません。

と申しますのも、私はフロイト理論の愛好者でありまして、特に彼が無意識への王道と見なす夢には、大変興味を持っております。そしてフロイトによれば、夢は願望の表現です。

この仮説を一笑に付す研究者が多いようですが、日常使い慣れている言葉が、既にそれを証明していると言えないでしょうか。眠っている間に見る 「夢」 と、「私の夢は ... になること」 といった願望を意味する 「夢」 が、全く同じ単語なんですよ。日本語に限らず、世界のどの言語でもそうらしいです。人類おしなべて 「夢」 に二つの意味を込めているというのは、極めて注目すべきことです。思うに、そうなったのは言語成立の頃、即ち、生物学的なヒトが「言葉を話す動物」としての人間になった時点まで遡るのではないか。そしてこの二重の意味は、本能を多少とも抑えながら生きることになった人間の、心の深淵を反映しているのではないか。

一口に願望と言っても、人には自我が許さないような願望もあります。フロイトによれば夢は、その種の願望を意識せずに済むように様々な加工を施して表現し、取り敢えず心的エネルギーを解放する、という実に巧妙な作業をしています。とても願望の表現とは思えない夢が、実はそうであった経験を申しますと、私は一時期、何かに追い掛けられて逃げる夢を頻繁に見ておりました。仕事から逃げたいと無意識に感じていたのですが、それを直接表現することは自意識が許しません。しかし、何か恐ろしいものに追われて逃げるなら止むを得ないわけで、それでもとにかく 「逃げる」 という行為は実現できたわけです。事実、天職と思える仕事に移って以来、逃げる夢はごく稀にしか見なくなりました (この辺を含めて精神分析理論の概要については、何と言ってもフロイト本人による 『精神分析入門』 に優る本は無いでしょう)。

人の心が、如何に謎に満ちた奥深いものであるかを如実に示すもう一つの例が、逆行性健忘症です。余りに衝撃的で受け入れ難い経験をした人が、その時点を含む記憶喪失に陥る現象で、テレビのサスペンス・ドラマによく出てきます。先日見たドラマでは、阿部 寛扮する新聞記者が悪徳政治家の情報を掴む。政治家は部下の女性を使って彼を篭絡しようとし、彼は当然その女性と恋に落ちます。全てを闇に葬ることにした政治家は二人を拉致監禁、川べりに連れ出された記者は、腕も体も動かせぬ状態で手にナイフを握らされ、そこに女性が背中をドンと押されて倒れかかってくる。自分の持ったナイフが愛する女性の胸を突いて... ここで阿部 寛の記憶は断ち切られ、自分が誰であるかも思い出せなくなってしまうわけです。この女性がまた、実に美しく私好みのちょっと丸顔で知的な顔立ちなんです。こんど彼女と会ったら、何とかメール・アドレスを聞き出して... いやそれはまず無理だから、このブログのアドレスをメモして渡す。すると自分も FC2 でブログしている彼女は、「あら貴方も FC2 だったの? 今度覗いてみるわ」 などと言い、特に 「野の花」 の記事 (3月27日付) を読んで私の人となりを知り . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

えっ ..... と何の話でしたっけ? そうそう逆行性健忘症。健忘症と言っても、別に事件が記憶から消去されてしまうわけじゃありません。阿部 寛だって、周囲の助けで記憶を失った時点までの足取りを辿ったりしている内に、衝撃の場面を思い出します。つまり逆行性健忘症とは、その余りに受け入れ難い事件を二度と思い出さずに済むよう、心がその記憶を無意識の奥に押し込めてしまった結果なのです。正に神秘的なメカニズムです。

睡眠中に見る夢の話に戻りますと、上に述べたのはその仕組みの一端に過ぎず、フロイト流の夢理論は今の脳科学の遠く及ぶところではないわけですが、研究者は自分達の知識や装置の限界を棚に上げて、夢に何らかの意味があることさえ受け入れようとしません。まあフロイトは、夢の中で変形して表現される願望の筆頭に性的なものを挙げましたから、どうしても認めたくない人がいるのも分りますが、じゃあ逆行性健忘症のメカニズムは解明できるの? 夢や精神分析を無意味と決めつけるのは、それからにして頂戴!

時の流れが実感できる年表作成法

歴史書の巻末にある年表や市販の年表では、事件の少ない世紀はほんの数行、多い世紀は数ページに亘るという具合に、時間の目盛が伸び縮みしていて、時の流れが感覚的に掴めません。

いきなりそう言われてもピンとこないかも知れませんので、一気に話を広げて、地球の歴史 46 億年を考えてみます。その方面の解説書を読むと、地球に原始の海洋が形成されて何億年かたち、
  生命が誕生したのが:40 億年前
  藍藻類の発生:29 億年前
  酸素に富んだ大気の形成:20 億年前 (最後の注参照)
  真核生物の誕生:18 億年前 (?)
  脊椎動物の出現:4.8 億年前
  哺乳類の出現:2.3 億年前
  恐竜の絶滅:6500 万年前
  人類 (ヒト属) の出現:200 万年前
  文明の誕生:1 万年前
などと書いてありますが、これでは哺乳類や人類の出現が地球の歴史全体の中でどの辺のことなのか、全くイメージが浮かびません。

ところが岩波講座『分子生物科学』の第三巻『生物の歴史』に、46 億年を一年に縮小した図があるんですねー。それによると、1月1日に地球の歴史が始ったとして、
  生命の誕生:2月17日
  藍藻類の発生:5月15日
  酸素に富んだ大気の形成:7月25日
  真核生物の誕生:8月10日 (?)
  脊椎動物の出現:11月25日
  哺乳類の出現:12月12日
  恐竜の絶滅:12月26日
  人類 (ヒト属) の出現:12月31日の午後8時
  文明の誕生:同じ日の午後11時59分
といった調子で、気の遠くなるような時間の中での、人類の位置が非常に鮮明になります。

これにヒントを得て、取り敢えず日本とフランスについて、西暦 0 年以降をカバーする年表を等間隔で作ってみました。具体的に言うと、A4 一頁で 100 年と決めて、罫線が30 本か 40 本入った A4 紙を用意し、十等分した線のところに一枚目は 0, 10, 20,..., 100、・・・・・、二十枚目は 1900, 1910,..., 2000 などと記した上で、まず大事件だけ書き込みます。それから少しずつ、自分に興味のある事件や文学作品などを追加していったのです。歴代の王朝・治世や特別な人物の生誕から死亡までの期間を、ページの端に直線で表示するような工夫もしました。こうして時間の目盛を等間隔にした年表を作ってみると、様々な事件の間の時間的へだたりがはっきり見えてきて、色々と面白い発見があります。

フランス史で言えば、ルイ14世の治世は 1643 - 1715 と 72 年間も続きますが、スペイン、オランダなどを相手に戦争をしまくる一方、東インド会社や西インド会社を設立して植民地政策を推進。国内では、フロンドの乱やらジャンセニスムの異端事件に二回の大飢饉が起り、文化面では(ニュートンによる万有引力の発見に続いて)ラ・ロシュフコーの『箴言集』、ラ・フォンテーヌの『寓話詩』、パスカルの『パンセ』と、今日古典と呼ばれる作品が毎年のように発表される ... といった具合ですが、時間の目盛を均等にしたお陰で、様々な事件が接近しまたは離れている様が、良く掴めます。更に、一世代 30 年、人生 70 年といった尺度を思い浮べながら眺めていると、歴史の流れが一味違って見えてきます。
 例えばランスの大聖堂は、1210 年に着工して正面二つの鐘塔が完成したのが 1475 年、その間実に 250 年以上です。これを私の年表で見ていると、最初に作業に加わった石工などは、大聖堂が完成した姿を見ること無く一生を終えたこと、恐らくそれを知りつつ作業に従事したのであろうこと、などが実感を以て迫ってきます。何十人もの人が、完成した姿を見られないのを承知で一生を工事に費やすなど、現代の我々には想像も出来ません。

日本史でも、平将門の乱は 940 年前後、即ち『土佐日記』と殆ど同じ頃に起っており、これから平安王朝の花が開こうという時期に、地方では既に大規模な反乱の起きていることが見えます。下って北斎『富嶽三十六景』や広重『東海道五十三次』などの作品は、まだまだ江戸文化華やかなりし頃のように感じていたのに、実はそれぞれ 1831, 33 年と、ペリー提督来航のほんの 20 年程前であるのを発見して、意外でした。ある種の時代錯誤かも知れませんが、そこに時の流れを感じずにはいられません。
 また日本の歴史にとって中国は密接不可分の関係にありますが、唐・宋・明・清などの時代をページの右端に直線で示すと、その文化的影響の大きさを改めて印象づけられます。

実は加藤周一『日本文学史序説』に、文学作品を時代の社会・経済的背景の中に位置付けて考えるというアプローチが展開してあり、これが岩波講座『生物の歴史』のアイデアと結び付いて、自分流の年表を作ってみようという気になったようです。

どのような事件を書き込んでいくかは私の興味次第で、何もかも入れないからこそ時間の目盛を等間隔にできるとも言えます。いずれにしても、この年表を作っておいたお陰で、何かの話に歴史上の事件が出てきた時も、その時代背景を具体的な時間の流れの中で確認できて、実に重宝しています。

注:「酸素に富んだ大気の形成?」と不思議に思われるかも知れませんが、原始地球の空気中には炭酸ガスはあっても酸素は無く、藍藻 (らんそう) 類という微生物が光合成によりせっせと酸素を吐き出してくれたお陰で、現在のような大気ができ上ったのだそうです。岩と水ばかりだった地球と生命が繰り広げた、壮大なドラマです。

野の花に開眼の記

マンションのベランダには横方向に浅い排水路が作ってあり、真中がわずかに高く、左右に向って傾斜しています。そのため中央部には、土ぼこりやら小さな石やらが少しずつ溜まっていって、小さな丘みたいになります。そこにある日、葉の厚いサボテンの一種かと思うような植物が生えてきました。

実は私、それまでは草花に全く関心が無く、両親からも「お前は花の名前も知らず、しょうのない子だね」と言われ続けてきたのですが、ネは優しい人間ですから、夏のカンカン照りの日など、ついその植物にコップ一杯の水を掛けてやったりしておりました。ひと夏生き延びたところで、マンション組合が全戸一斉にベランダの床を張り替えると言います。勿論、ベランダに置いてあるものは全て、放っておけば工事の際に不要物として捨てられます。

あの植物も勝手に住み着いたんだし、工事があるのも運命、放っておこう、と一旦決めたのですが、明日拙宅の工事があるという日の夕方になって、どうしても可哀想になって、手持ちの鉢にマンションの敷地の土を入れてきて、植え替えました。

すると見る見る成長し始めて、一体何だろうと思って一年くらいした頃、花屋の店先で同じ植物を見付けました。俗名「金の成る木」、別名「花月」でした。よそで見るとなかなか綺麗な花が咲くのですが、一旦見捨てる積りでいたのを恨んでか、もう三回正月を迎えましたが、一向に花を付けてくれません。

それはともかく、花月のために土を盛った鉢には、他にも何やら生えてきて、何になるんだろうと観察するのが非常に面白い。それからは他にも鉢を買って来て、とにかく敷地の土を構わず入れ、水をやりながら観察を続けました。すると必ず何か生えてきて、不思議に思っている内に鶏頭 (けいとう) になったり、爆蘭 (はぜらん) になったりと、実に楽しい経験をしています。

こうして植物に興味を持ち出して以来、路傍の何ということもない雑草でも、実に綺麗な花をつけているのに気が付きました。バラだの蘭だのという高級観賞植物よりも、誰が植えたわけでもなく生えてくる植物の方が、魅力を感じます。単に花の全体を見るだけでなく、雄しべ・雌しべがどうなっているかを確認するまでじっくり眺めると、花びらの形や配色にも驚異的な多様性が見られます。蕾が次第に大きくなる頃から継続して観察すると、尚更その感を深くします。

名前の分らない花について調べる時は、「季節の花 300」というサイトのお世話になっています (リンク参照) 。小さな花でも拡大写真などが用意してあり、確認するばかりでなく改めて鑑賞することも出来ます。

ところで野の花を見るたびに思い浮ぶのが、聖書のマタイ伝福音書第6章、28, 29節です。

「又なにゆえ衣のことを思ひ煩ふや。野の花は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり、されど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにも及 (し) かざりき」

キリストの教えと言えば、「すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」といった具合に過激なもので、凡人の私にはとてもついていけませんが、野の花の一節は彼の言葉とも思えないほど説得力があります。この一節は内容と文体が絶妙な調和を見せて有名なのか、丸谷才一も『日本語のために』に収められた「未来の日本語のために」の中で、文語訳聖書が口語訳より遥かに優れている例として、引用しています。

それにしても、様々な形をした花びらの、鮮かな青、新鮮な黄、また品の良い薄紫などなどを眺めていると、ほんとにどんな豪華な装いもこれに如かず、まさに自然の妙としか言いようがありません。

iMac購入顛末

唐突ですが、私の日頃愛用している MacBookPro と申すは、アダプタのコードを本体に繋ぐ箇所がマグネット式になっておりまして、オス・メスの電極がただ相対して接触しているだけなのであります。自然じゃありません... それはともかく、あと三ヶ月で丸二年になろうという頃になって電力供給が時々途絶えるようになり、アダプタ側の金属部を指で掴んで必死で本体側に押し当てるというような動作を迫られ、遂にはそれでも電気の通じるのは一日に四、五秒などという事態になりました。

妙なところでデザインに凝って、一番肝心の電源が確保されないなんて怪しからん、と怒り心頭に発して、Windows マシンに転向したろカと思ったくらいですから、如何に私の憤りが激しいものであったかお分りでしょう。

ヨドバシに問い合せても「そんな不具合は聞いたこと無いし、アダプタを買い替えれば 50,000 円程度」などと抜かしますので、この際アダプタ側の金属部を本体の穴に差し込む式の機種に変えたる、何としても変えたる、と意気込んでヨドバシに出掛けたところが、何と Mac のノート型は全てマグネット式になっております。MacPro を除けばもう iMac しか無いのであります。しかもデスクトップだけあって、一番安いのは 20 インチ、2GHz、HDD 250GB のものが 160,000 円で買える! 

と気持の動いたところで、それでも MacBookPro が全く死んだのでは代替マシンとしてさえ使えないわけで、幾ら何でも余りのことにございます。悩んだ末に漸く思い付いて銀座の直営店に電話したところが、5 分も待たせた揚句に、持ってくればチェックしてやる、新しいアダプタも 10,000 円で売ってやる、と申します。喜び勇んで持ち込んだところが、アダプタ側のコード内の断線が原因で、しかも「これは只で交換します」と来ました。それは助かるネー、などと鷹揚なところを見せてしまったのですが、「それが当然だね、キミ」と言うべきでした。

ここでロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』の一説が頭をかすめたのであります。デートの際に女の子が遅れてくる、それが 15 分、20 分の内は腹が立つ、それが次第に怒りに変わりますが、更に一時間、一時間半と待たされる内に、「どんなに遅れても良いからとにかく来て欲しい」という哀願のような気持に変化する... のだそうです。男性読者はこの箇所を恋人に読ませない方が宜しいでしょう。心得てあなたを待たせるようになるといけませんから。

さて MacBookPro は無事正常に戻りましたが、一旦あの 20 インチの画面を眺めてしまうと、色々利点が思い浮かんで、もう戻れません。
  (中略)
とにかく買って来ました。ところがいざ使い始めてみると、クリアワイドスクリーンディスプレイとか称する画面がキラキラと光を反射して、ワープロの画面に自分の顔やら室内の風景やらが写って、眼が疲れるし、とても我慢出来るものではありません。これは機種の選択を誤ったのではないか、買う前に四度も五度も店頭に足を運んだのに肝心のことを見落したらしい、ああ俺は何と間抜けな男なのだ、メモリを 1GB 追加した上にワイヤレスのキーボードまで買って、締めて 180,000 円の投資が無駄になるのか... と毎日毎晩後悔の念に苛まれること数日。

友人の某さんは iMac が欲しいと言っていたし、私よりは若くて眼も達者なようだから、画面の反射光もそれ程気にならないかも知れない、彼に只で上げてしまえば、少なくとも一台全く無駄にはならない... などと考えあぐねた末に、「iMac、画面の反射」とか何とか入れて検索したところが何と、反射防止のフィルムを売っているんですねー。7480 円です。地獄に仏とはこのことでございます。早速買って来て苦労して貼りました。何せ画面とフィルムの間に気泡を一つも残さず貼るのは至難の業でありまして、それでも何とか成功しました。

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