HOME

トランプはそのうち米国の諜報機関に刺される...

ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、CNNテレビ等を「偽ニュース」と決め付ける、就任式当日の観客動員数について明らかに間違っていることを平気で主張し続ける... 彼が就任するまで、米国大統領の発言として考えられなかったようなものが、連日テレビで報道されると、何だかごく普通のことのように感じられてくる、実に恐ろしい。

こうした異常事態に慣らされてしまわぬようにという思いを込めて、2月23日付『ル・モンド』紙に掲載された、アメリカのスパイ小説家ロバート・リテル氏の寄稿文を要約します。


ホワイトハウスに住み着いた自己中トランプは、就任して以来、毎日平均一つの大失策をしでかしているが、これは驚くには当らない。大統領職の研修生みたいなものだから。

しかし彼の最大の失策は、まだ選挙戦の最中、まさか本当に大統領になるとは彼も想像していなかった頃に遡る。米国の諜報機関が、「ヒラリー候補のメールのハッキングとウィキリークスによる暴露の背後にはロシアがいて、大統領選の行方をトランプ候補に有利にしようとした」、という結論に達した時、彼は僅かに残っていた冷静さを失った。

ツィッター上で彼は、CIAを始めとする米国の諜報機関を誹謗中傷し、誤った情報を流していると非難した。激怒の挙句に「我々は一体ナチス時代のドイツにいるのか」と、CIAをゲシュタポになぞらえることも厭わなかった。

彼は、米国のスパイ達が諜報活動を政治化しており、全く無能力で、嘘をついていると非難し、大統領選へのロシアの干渉に関する報告は、「馬鹿げている」のひと言で片付けた。トランプから怒濤の如き侮辱の言葉を投げつけられ、諜報機関による大統領へのブリーフィングには何の関心も無いと言われて、スパイ達も遂に反撃に転じた。

諜報機関幹部の一人はこう言った:「悲しいかな、客観的で不偏不党の分析をもたらすために毎日命を賭している米国人よりも、プーチンやウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジュの方を信用する政治家がいるとは」。

就任式の翌日トランプはCIA本部を訪問したが、事態を悪化させただけだった。活動中に殺されたエージェント達を表す117の星が刻み込まれたメモリアル・ウォールを前にして、彼が語ったのは自分のことだ。特に、第45代大統領の就任式に集った人数を過小評価したと「不誠実なメディア」を非難した。

こうした瞬間に、大統領の真価が問われるのだ。彼が笑いものにしている米国諜報機関はCIA, NSA等17の組織からなり、職員総数85万人。その85万人が、歴史上誰もが隠しておきたいと思っている秘密を、多かれ少なかれ知っているのだ。

J.F.ケネディ大統領の時代を思い出してみよう。彼自身も、司法長官としてFBIを監督していた弟のロバートも、専制的なFBI長官エドガー・フーバーを嫌っていて、何とか彼を解任したいと思っていた。

伝わるところによると、ある日フーバーがロバートの執務室に現れ、脇に抱えて来た分厚い書類の束を見せた。ロバートはその中味を一瞥すると、何も言わずにフーバーに返した。そしてケネディ兄弟はフーバーの解任を断念した。

FBI長官としてフーバーは、ジャクリーン・ケネディの旅行中に大統領が誰と寝ているか知っていた。例えばホワイトハウス内のプールで、大統領と一緒に全裸で水浴びをしていた若い二人の女性職員。あるいは東欧のある国から来たスパイかも知れない女性。彼女は空港まで護送されると、秘密裏に国外追放となった。JFKの数知れない愛人の中には、シカゴ・マフィアのボス、サルヴァトーレ・"サム"・ジアンカーナの情婦ジュディス・キャンベル・エグスナーもいた。つまりフーバーは、大統領のあらゆる秘密を握っていたのだ。

トランプが盲目的な怒りのままに米国の諜報機関全体に放った猛攻撃は、彼自身に跳ね返ってきている。彼がホワイトハウスにい続ける限り、その代償を払い続けるだろう。彼の行動に関する厄介な、場合によっては違法な事実が、ゆっくりと少しずつリークされて、彼を苦しめることになるだろう。スパイ達が彼に関する際どい情報を提供して、彼がホワイトハウスから放り出される可能性も排除できない。

トランプにとってもう一つの転機となったのは、主要メディアとの関係だ。彼はマスコミを「アメリカ国民の敵」とまで呼んで批判し続け、今や側近達と一緒に新聞雑誌を保護する憲法修正第一条を無視して、「ホワイトハウスはメディアと戦争状態にある」と公言するに至った。

しかしワシントンの政治記者達は諜報機関の職員と長年に亘って接触しており、新たなウォーターゲイトの匂いを嗅ぎ付けている。トランプの肥大したエゴに一撃を加えることができれば、記者としてのキャリアは数ヶ月、いや数年に亘って保証されたも同然だ。議会下院の消極的な共和党議員をして、党利より国益を優先させ、トランプを罷免させれば、なおさらキャリアは安泰である。

見誤ってはならない。トランプは非常な困難に陥っている。何年も前からロシアの富豪達に不動産を売っているのは公然の秘密だし、モスクワにトランプ・ブランドを定着させようとしているのも同様だ。今のところ成功していないようだが。対中国ではもう少しうまく行っているようだ。「一つの中国」政策に戻った今、中国政府は彼の企業にトランプ・ブランドの使用を許可した。

トランプは、大統領候補が過去40年の間必ず行ってきた納税申告書の公開を拒否しているが、そのことが却って、彼のビジネス帝国がロシアの銀行から資金を得ているとの疑いを生んでいる。

彼がロシア政府による人権侵害を批判するのに熱心でないこと、大統領選へのロシアの介入を認めようとしないこと、ポール・マナフォート, カーター・ペイジ, ロジャー・ストーン, 先日辞任を余儀なくされた国家安全保障担当補佐官マイケル・フリン等々、何人もの側近がモスクワと怪しい関係にあること、こういった全てが彼に対する非難を生んでいる。

そして遂に米国諜報機関が、トランプの否定にも拘わらず、選挙期間中に彼の選対本部メンバーがロシア諜報機関の幹部と何度も接触していた、と証言した。

トランプと議会および司法省にいる手下達は、現実否認の態度を取っている。リークされた情報の中味から注意をそらして、リーク行為そのものに焦点を当てようとしている。彼はリークしたのが誰かを明らかにし、制裁すると誓った。成功を祈る... 選挙戦中のロシア側との接触のリークを塞いだとしても、また別のどこかでリークが起こるに違いない。

彼にとって真の問題は、自分が全てを指揮する立場にあるのに起こった様々な事件ではない。問題は、色々な秘密を握っている諜報機関がリークするために、そうした事件が公けになることなのだ。

彼を苛立たせているのは、罪そのものではなくて罰の方だ。子供を持ったことのある人なら誰でも知っている。悪事の現場を押さえられた子供は、自らの行為を悲しむ代りに見付かったことを悲しむのだ。

トランプはいつの日か大人になれるだろうか。米国は、怒りの発作の140文字にいつまでも耐えられるだろうか。諜報機関職員85万人の多くが、彼を困った事態に陥らせる可能性を秘めた情報にアクセスできることを考えると、彼がホワイトハウスにいる間に大人になる時間的余裕はあるだろうか。彼が任期を全うしなければ、米国の民主主義は無傷で済むのだろうか。それとも、大人になりきれなかった子供が大統領選に立候補し、あまつさえ当選してしまったことで、決定的に歪められてしまうのだろうか。

桐壷,帚木,空蝉,...の順に読むと、話の流れが不自然かも...

林真理子 初めのほうの、空蝉に対する光源氏の態度はちょっと傲慢。現代の女性に好意をもたれない感じがします。それも相手は人妻。紫式部はなぜ、読者に嫌悪感をもたせるような女性関係をオープニングに設定したのでしょうね。
山本淳子 なぜでしょうね。私にもわかりません。

 (誰も教えてくれなかった
  『源氏物語』本当の面白さ
  林真理子×山本淳子、小学館新書
  p.32、最後から二行目)

林真理子の疑問はもっともで、人気作家だけあっていいところを突いている。それに比べて山本淳子の反応は、『源氏』研究者なのに頼りない限り。

と言うのも、世に「武田説」と呼ばれるものがあって、要約すれば以下の通り。

1)『源氏』前半33帖は二系統に分離できる:
 紫上系:桐壷,若紫,...,須磨,明石,...,藤裏葉
 玉鬘系:帚木,空蝉,夕顔,...,玉鬘,...,真木柱
2) 玉鬘系は紫上系が完成した後に書かれて、現在の場所に挿入された。

つまり、林真理子の疑問自体が解消されるわけです。山本淳子は、次のように解説して上げても良かったのではないか :「学界の多数派ではないけれど、武田説によれば、紫式部が書き始めた時には、読者に嫌悪感をもたせるような女性関係をオープニングに設定する積りは無かったのヨ」。

確かに、武田説を支持する研究者は学界で少数派です。しかし山本淳子は人も知る平安文学研究者で、『源氏物語の時代』で第29回サントリー学芸賞を受けた程の専門家。1950年に発表されてその後十年以上に亘って学界を賑わせた仮説を、聞いたことも無いなんてあり得ない。なのにそれを紹介することもなく、ただ「わかりません」という答え方は、武田説を無視する学界の大勢を憚って口をつぐんだとしか思えません。

これは別に、山本淳子氏を狙い打ちしているわけではありません。今度少し調べたのがきっかけで、別の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』を購入し、平安時代や『源氏』について何でも知ってるんだと、改めて感心したくらいです。「武田説を無視する学界の大勢を憚って口をつぐんだ」というのは、大野晋・丸谷才一など少数の人々を除いて、武田説を飽くまで否定する大多数の専門家諸氏に向けた言葉です。

武田説の根拠は「『源氏物語』54帖執筆順の謎:大野晋の解説書紹介」にご紹介しましたが、主要な点を引用すれば:

1) 紫上系の人物は玉鬘系にも登場するが、玉鬘系に初登場する人物はその後に来る紫上系の帖には登場しない。
2) とりわけ、前半33帖の大団円とも言うべき梅枝,藤裏葉には、光源氏が関係した多くの女性が勢揃いしているのに、玉鬘が全く姿を見せない。
3) 紫上系で起きた事件は玉鬘系に影を落しているが、玉鬘系で生じた種が紫上系に戻って活動することは無い。

これだけでも、紫上系が本体であり玉鬘系は外伝のようなもの、と考える根拠として説得力があります。しかも桐壷,帚木,空蝉,...と読み進む限り、「紫式部はなぜ、読者に嫌悪感をもたせるような女性関係をオープニングに設定したの?」という疑問を避けられない。林真理子のひと言は図らずも、現行の順で読むことの不自然さを炙り出したと言えるのじゃないでしょうか。


その上、原文にせよ現代語訳にせよ初めて『源氏』を読む人にとっては、まず紫上系を通読してから玉鬘系を読んだ方が、物語の展開が遥かに見通し良くなるのです。

実際、帚木,空蝉,夕顔の三帖は、それぞれを短編として読めば面白いけれど、『源氏』全体を物語として読み通そうと思う者にとっては、話の進行がしょっぱなから停滞して中々前に進まず、先の展望も開けない大きな原因です(岩波『新 日本古典文学体系』本で合計約100ページ)。玉鬘,...,真木柱の十帖に至っては、梅枝,藤裏葉の前に、約200ページに亘って立ちはだかっています。この十帖で初めて登場した人物や起きた事件が、梅枝,藤裏葉には一切現れないのにです。

こうした事情にも拘わらず通常の順で読ませようとするのは、通読を思い立った読者の覚悟を試しているかのようです。帚木,空蝉,夕顔の三帖を突破した者だけが若紫以降に進む資格を持つ。同じように、玉鬘に始る十帖を読破した者だけが、前半33帖の大団円を知り、若菜以下に足を踏み入れる権利を与えられる... まるで通過儀礼のような雰囲気です。

殆どの研究者は苦労して通常の順で読み通したものだから、初めて読む人が武田説に従って楽するのが安易な態度に見えてしまう、いやむしろ無意識的に面白くない。だから、みんなで寄ってたかって通常の順で読ませようとする... のではないかと勘ぐりたくなってしまいます。 

もうそろそろ武田説を無視するのは止めて、「慣例に従って各帖を並べてありますが、紫上系を先に通読するという読み方もあります云々」と、序や凡例にひと言入れてみては如何でしょうか。原文・現代語訳を問わず、『源氏』を最後まで読み通す人がぐっと増えること間違い無しです。

追伸 林真理子の言う「はじめのほう」とは勿論、『源氏』全体のはじめの方という意味です。念のため、対談の第一章「『源氏物語』スター千一夜」の、冒頭から件の箇所までを引用します。

恋の暴れん坊将軍・光源氏の正体
 壮麗な長編小説『源氏物語』の魅力を支えているのは、光り輝くばかりの登場人物たち。中でも一番の人気は高貴な生まれのイケメン、光源氏を置いてほかにいないでしょう。美貌と知性で女性遍歴を繰り返す、魅力的な彼の存在を抜きにしてこの物語を語ることはできません。光源氏は一般的に知られるようなただの色好みであったのか、それとも.....。おふたりの対談はまず、この主人公像から始ります。

林真理子 実は私は、光源氏という人はしょっちゅう女の人をひっかけて遊んでいただけで、あまり魅力的な主人公だとは思っていませんでした。
山本淳子 確かに現代の感覚では、そういう感じ方にもなりますよね。光源氏には「恋の暴れん坊将軍」みたいな傾向があって、その点がヨーロッパやアメリカの研究者の方には受け入れがたいとうかがったことがあります。
 はじめのほうの...。

テレビニュースと総合病院の女医

(男女の違い七不思議:その二)

1月16日の『朝日新聞DIGITAL』にこんな記事が出ました:
女医の方が「腕がいい」? 性別比較の論文、米国で話題

男性医師より女性医師の方が「腕がいい」ことを示唆する論文が米医師会雑誌(JAMA)に載り、米国で話題を呼んでいる。
 ハーバード公衆衛生大学院の津川友介研究員らは、内科系の病気で入院した米国の65歳以上の高齢患者約130万人について、担当医の性別で比べた。入院後30日以内の死亡率は男性医師が11.5%、女性医師は11.1%と、有意な差が出た。退院後30日以内の再入院率も、女性医師の担当患者の方が低かった。
 女性医師の方が軽症患者を多く診ている可能性があることから、重症度を問わず入院患者を診る医師で比べたところ、やはり女性医師の担当患者の方が死亡率、再入院率ともに低かった。
 津川さんは「女性医師の方が治療指針を守り、患者の話をよく聞き、専門家に相談する傾向が高いことは過去の研究でわかっている。これらの違いも要因なのでは」とみる。米国では女性医師の給料が男性より8%低く、昇進も遅いという。医師の力量が待遇に必ずしも反映されていないと言える。(錦光山雅子)

何と、私が7年も前に直観していた通りです。慎しんでそのブログを引っ張り出しましたので、「だいたい今の世の中...」以下をご覧下さい。


最近のニュース番組は男女二人のキャスターが組んで進める形式がほとんどですが、途中で何かトピック的な話題を持ち出す時によく、こんな問答が聞こえてきます:「鈴木さん、桜は葉が出る前に開花しますよね。葉が無ければ葉緑素も無いから、光合成ができないはずですが、花の材料はどうやって作り出すと思います?」「さあ、どうしているんでしょう?」てな具合です (答は追伸その一)。NHKみたいなところは全て事前に筋書きがあって、一寸違わず進行させるわけですから、どういう話題が持ち出されて質問の答は何か、二人とも知っているわけです。なのに一方は知らないことにする... 白けますがそれはまあ良いとして、不思議なのは、知らない振りをさせられるのが殆どいつも女性キャスター、知ったかぶりして教えるのは男性キャスターだということです。

NHK総合 夜9時のニュースなんか更にその傾向が強くて、見る度に呆れます。徹頭徹尾、ワタシ ニュースを読み上げるだけの人、ボク 事件とその背景を熟知してる人、です。たまには男性キャスターが女性に教えてもらう役を演じても、罰は当らないと思うのですが、男女のどちらかがその役を演じなきゃならないとなると、結局 女性にお鉢が回ってくるらしい...

だいたい今の世の中、ポストが一つ空いて、能力の拮抗する候補者が男女一人ずついた場合、男性の方が採用される傾向にあるそうじゃないですか。逆に言えば、女性が選択された場合は、その人の方が誰の目にも明らかなほど優秀だったということです。だから私は、総合病院で患者が医師を選べるシステムのところでは、必ず女医を選択します。もしかして綺麗な先生だったら嬉しいな~... などという邪念は全く無く、その方がより優秀な医師に当る確率が高いからです。同様に、男女二人のキャスターが並んでニュース番組をやっていれば、女性の方が優秀な可能性が高いわけです。なのに、女性キャスターばかりが教えてもらう振りをさせられるのは何故でしょう? 

追伸その一 女医や女性キャスターには興味が無く、桜の開花に興味のある方に。
 植物に関する質問に必ず答えてくれるサイトがあります。日本植物生理学会の「みんなのひろば」の植物Q&Aです。
 ここに、「桜は葉が出る前に開花する。葉緑素がまだ無いから光合成もできないのに、どうして花を作れるのか」と質問してみたところ、次のような答を掲載してくれました (登録番号: 1961、2009-04-26):

サクラのような多年生の木本植物では、秋までに光合成によって作られた養分を幹や枝の樹皮の内側の柔細胞に、糖、デンプンなどの形で蓄え、春になって花や新しい葉を作るために備えています。

追伸その二 この記事を再度掲載すれば、日本中の女性からどど〜っと拍手が来ると確信していたのですが、二つ増えたきり。ぐっと落ち込んで考えた末に、期待外れの原因として以下の三つが頭に浮かびました:

 1)拍手などすると、知らない内にFC2や管理人に自分のidやメールアドレスを把握されそうな気がして、怖いのでしない。
 2)表面的には女性に真摯に好意的な記事に見えるが、どうも色好みオヤジの気配が漂っていてヤラしいのでしない。
 3)女性の目から見たら、このブログに書いてあることなど余りに分り切ったことなので、今更男が言ったところで面白くも何ともない。

本当はどれなのでしょう。

米国のゴールドマン・サックス政府、健在なり

2016年12月18日付『ルモンド』紙のコラム記事 (Sylvie Kauffmann) をご紹介します。トランプも選挙キャンペーン中は金融界に対して極端に敵対的な態度を見せたのに、新政権の閣僚を選ぶ段になると結局、ゴールドマン・サックス(以下GSと略記)出身者に頼っている、という趣旨です。


大統領選の間、ドナルド・トランプは金融界が大きな権力を握っていると、口を極めて非難した。その表現の激しさに比べれば、フランスの現オランド大統領が2012年の選挙期間中に叫んだ台詞「私の敵は金融界だ!」など、お目出度い原則論に過ぎない。

トランプ候補が、投票日11月8日の少し前に国中に流したビデオクリップを見てみよう。その中で不動産王トランプは「世界経済の決定権を握る者達」を罵り、「彼等は米国の労働者階級を身ぐるみ剥いだ上に、米国から奪った富を私物化し、一握りの企業や国々に投資した」とこき下ろしている。フランスの極右政党「国民戦線」党首マリーヌ・ル・ペンも極左のジャン・リュック・メランションも同意しそうな言葉だが、それを彼が述べている間、画面に次々と現れたのは、投資家で慈善家のジョージ・ソロス、FRB(連邦準備制度理事会)議長のジャネット・イエレン、クリントン夫妻、そしてGSの現会長ロイド・ブランクファインである。

人が目のかたきにする銀行、ポピュリスト候補達のお気に入りの敵、良きにつけ悪しきにつけウォールストリートのパワーを象徴する存在、世界広しと言えどもこれ程ノウハウと才能と傲慢さを濃縮した企業は他に無いと言われる、それがGSだ。2010年に『銀行』を出版したマルク・ロッシュは、GSを「太陽の沈まぬ帝国」と評した。また2009年7月にジャーナリストのマット・タイビは雑誌『ローリングストーン』に投稿して、「金融危機の歴史はまるで、GSに籍を置いた者達の紳士録だ」と総括している。資本主義に大打撃を与えた金融危機、何百万の消費者が騙されて破産した金融危機から、アメリカ国民が漸く立ち直ろうとしていた頃だ。

その後、様々な変化が起きた。米国の金融危機に代わって、EUの公的債務危機が経済ニュースのトップを飾った。共和党ではティーパーティの怒れる者達が背後に退き、オバマ大統領が再選され、経済成長と雇用が次第に回復した。GSはサブプライムローンに代表される金融商品を販売した件で司法省と和解し、50億ドルを支払わされたが、間もなく嵐は通り過ぎたと言わんばかりに、法外なボーナスを復活させた。競合相手であったリーマン・ブラザースが破綻し、GSは金融クラッシュを経てむしろかって無いほど強力な存在となった。ヒラリー・クリントンはGSで何度か講演し、法外なボーナスに見劣りのしない講演料を手にした。

しかし、良心のかけらも無い銀行のせいで債務超過に陥った選挙民達は、金融危機のさなかに、担保に入れた自宅を手放さざるを得なかったことを忘れなかった。だから2015年にトランプが立候補して、「腐敗したヒラリー」や、彼女がGSから受け取った桁外れの報酬を声高に攻撃した時、それに喜んで耳を傾ける者も多かった。「ヒラリーを監獄に!」という叫びが、トランプの選挙集会で支持者の合い言葉になった。

ウォールストリートもヒラリー・クリントンも、そしてトランプ自身も驚いたことに、彼が大統領戦に勝利した。さて、将来の政権幹部に誰を選んだか? 言うまでもなくGSの幹部達だ! 恥も外聞も無くとはこのことだ。選挙選自体がスナップチャットの画面に現れては消える束の間のメッセージに過ぎなかったかの如く、この数週間にGS出身者を4人採用している:
 政権移行チーム幹部の一人にアンソニー・スカラムッチ、
 財務長官にスティーブン・ムニューチン、
 主席戦略官・上級顧問にスティーブ・バノン、
そして最後を飾るのがGS現社長 (同社No.2) のゲイリー・コーン。ホワイトハウスの国家経済会議委員長に予定されている。

国家経済会議は、クリントン大統領が1993年に創設した割合新しい組織だ。
 クリントン大統領がその委員長に誰を任命したかと言えば... GSの共同会長ロバート・ルービンで、彼はその後財務長官となった。
 ジョージW.ブッシュ大統領は、同会議委員長にロバート・ルービンのGS時代の同僚ステファン・フリードマン、財務長官にGS会長のヘンリー・ポールソンを任命した。
 オバマ大統領も、同銀行と政権トップレベルの間の伝統的とも言える密接な繋がりに、背くことはしなかった。
 だからウォールストリートは時に、ホワイトハウスの閣僚・補佐官の集団を「サックス政府」と綽名する。確かにこれは、フランクリンD.ルーズベルトまで遡る伝統なのだ。結局のところGSは米国にとって、ENA(フランス国立行政学院:エリート官僚養成機関) のようなものであり、トランプだって彼の標語「偉大なアメリカを取り戻す」ためなら、GSの優秀な出身者達に声を掛けるのを断念するわけもないのだ。

GSの株価が11月8日以来32%も上昇したのも頷けるが、お陰でロイド・ブランクファインの財産は1億4000万ドル、ゲイリー・コーンの財産は5200万ドル増えた。ウェブサイト Quartz によれば、トランプ政権のメンバーとして現在までに選ばれた17人の資産を合計すると95億ドル以上、これは米国世帯の最も貧しい3分の1(4300万世帯) の資産合計を上回る (負債をマイナスで算入) 。米国の政権内にこれほど富の集中が起こったことは今まで無いそうだ。


管理人としてはひと言言わずにいられません。トランプが選挙選中に流したビデオクリップやスローガンとの違いは、選挙公約なんてどうせ守られないのが相場、というレベルの問題じゃありません。まともな論理的思考ができないか、そうでなければ、大統領の権力を手に入れるためなら、どんな嘘も平気、金持のための政治をしていれば4年くらいは何とかなるという腹ですかね。

追伸その一 ゴールドマン・サックスについては、拙文「ゴールドマン・サックスに一矢報いた気分になれる本」もご覧下さい。
 
追伸その二 日本では余り注目されていませんが、トランプ政権の閣僚には温暖化人為説懐疑派が二人いて、それぞれ環境保護局長官とエネルギー長官になるそうです。温暖化人為説懐疑派なんて絶滅危惧種かと思っていたのに、しぶとく生き残っているんですね〜。これについても拙文をご覧下さい:
 Category | 温暖化懐疑論について

またまたオスプレイの事故です

オスプレイには事故が絶えないのに、沖縄で12月半ばに起きた事故についても米軍の説明は、「機体のシステムによる問題ではない」です。そこで敢えて2012年8月の記事をもう一度ご覧頂くことにしました。

先日来、オスプレイの事故調査報告なるものが日本政府に届けられています。一回目の報告は今年4月に起きたモロッコの事故、二回目の報告は6月に起きた米フロリダ州のが対象ですが、そんな風に一件一件切り離して分析していて、機体の安全性には問題が無いと判断できるものでしょうか。

朝日新聞デジタル版7月20日付によれば、量産決定後の2006〜11年の5年間に既に58件もの事故が起きていたそうで、同型機の事故は合計60件になります。その全体を総合的に分析せず、直近の事故二件だけを、それも別々に分析しようという手法が良く理解できません。

自動車事故だって、一件一件はドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えたためと結論できる場合でも、同じ車種で類似の事故が多発すれば、もはや個々のドライバーのミスとは見なされない。間違え易いような設計になっているとして、リコール・設計変更等の手続を踏むことになります。

ご参考までにネット検索で出て来た情報をコピーすれば、
 モロッコの事故では、副操縦士が離陸直後に強い追い風で前方に傾いた機体を修正する措置を取らなかった上、十分な速度を得ないままプロペラの角度を制限以上に前に傾けたことなど、マニュアルに従わない操縦が複合的に重なった。
 フロリダ州では、事故当時は2機のオスプレイが編隊を組み、回転翼を斜め前方約80度に傾けた「転換モード」で旋回飛行をしていた。このとき、後続機の回転翼が、前方機が生む気流の乱れに巻き込まれて制御不能となり、墜落した。気流の乱れに巻き込まれた理由について、「操縦士が前方機が生む乱気流との位置関係を誤認し、不注意に気流の乱れに近づいたため」としている。

しかしこのように一件毎に、しかも事故時に吹いた「強い追い風」だの、「前方機が生む気流の乱れとの位置関係」などという要素まで考慮すれば、どんな事故でも、原因は機体の構造ではなくて操縦ミスと結論できてしまうのではないか。と言うより、最近の二件に限って、一件一件を切り離した報告書を日本政府に届けるというやり方に、安全性の疑いが機体に及ばないようにという意図が透けて見えるような気がする。日本政府は何故、6年未満で60件も起きた事故の全体を総合的に分析した報告書を要求しないのでしょう。

さらば Androidスマホ、さらば Google...

名前を全部書くのも忌々しいト...が米国大統領になってしまい、これから地球はどうなるのかと、世界中が気を揉んでいる時にナンですが、奴をどうすることもできない以上、私ごとを語るしかありません。

自宅の情報機器と言えばiMacにMacBookAirにiPadAir2しかないにも拘わらず、モバイルSuicaが欲しいばかりにAndroidスマホを使ってきましたが (「私義、この度 Androidスマホを」)、遂にiPhone7でモバイルSuicaが使えるようになった。大事件です。

今のスマホを買って二年半は経つし(正確には二年4ヶ月だけど)、iPhone7でモバイルSuicaが可能になったと聞いてから二ヶ月も待ったし、発売された後も10月25日にモバイルSuicaがほんとに動くのを見るまでじっと我慢したし、そろそろiPhone7に機種変更しても許されるのではないかと、綿密に下調べをしました。

私にとってスマホとは、電話, 住所録, スケジュール管理, メール, モバイルSuica、そして外出時にiPadをネット接続するためのデザリング、これだけです。従って機種変更する際に気になるのは、モバイルSuicaと絡んでiPhone7に取り込めるクレジット・カード、スケジュール管理アプリのジョルテ、そして画面の字の大きさ。
 クレジット・カードの件では大分時間を使ったが、既に様々語られているので割愛。ジョルテにiOSバージョンがあるのもすぐに確認できた。一方、初代iPhoneは字が小さ過ぎて使う気になれなかったので、この点が非常に気になります。

ヨドバシで色々試すと、字の大きさが変更できるようになっているが、メール本文の字がまだ小さい。店員に尋ねても、「メールの字は変えられません」と平気で言いよる。ちなみに、メールはパソコンとiPadでしかやらない主義で、スマホには自宅のパソコンと家内のスマホからしか受信しないよう設定してある。それでも、何か思い付いた時にメモってパソコンに送るのにメール機能は重宝で、この字が小さくては不便至極。ブログの執筆にも差し支える。
 というわけで、ヨドバシで埒が明かないならと銀座のApple直営店に行ってみたところ、さすがに良く知っている。メールの字も大きくなることが分った上に、字を大きくするには「画面表示の全てを拡大する」機能のあるのも分りました:
 「設定」>「画面表示と明るさ」>「表示」
で、画面表示に「標準」と「拡大」の選択肢がある。但し後者ではアプリのアイコンも大きくなり、お年寄り向けラクラクホンの印象無きにしもあらず。

こうして、端末価格の問題以外全てクリア。価格の高さには抵抗があったが、本命の選択肢が現れたのにAndroidスマホを使い続けていて、あの世からお迎えが来てしまったらどうする? という究極の論理で押さえ込んだ。更にヨドバシで溜まったポイントを全て投入して、現金支出は大分抑えられた。色はシルバー。美学的選択の積りだが、無意識の内にシルバー世代が作用したのかも。

今まで使ってきたAndroidスマホは左右側面に角があり、手から滑り落ちる危険を全く感じなかったが、iPhone7は表面がすべすべしていて側面も丸く、どうも心配だ。結局、エレコム製のポリカーボネートとTPU(熱可塑性ポリウレタン)ハイブリッド型ケースを買った。左右側面の部分がTPUらしくかすかに抵抗があり、うっかり落とす不安がかなり減った。しかも、シルバーの本体にスモークガラス風のケースを装着すると、ちょ〜洒落た色合いになった。見てみたい?

さて、ケースを買いに行った時にヨドバシの店員が意外な機能を教えてくれた。AssistiveTouchという名で、
 「設定」>「一般」>「アクセシビリティ」
の中にある。これをオンにすると、どんなアプリでどんな操作をしていても、常に画面に9ミリ角のグレーの正方形に丸のアイコンみたいなものが表示されて、それをタップすると4.5センチ角のウィンドウが出現し、中に
 「消音」
 「コントロールセンター」
 「ホーム」
などの項目が入っている。ホームをタップすれば、ホームボタンを押さなくてもホーム画面に戻れる。ウィンドウに現れる項目は自分で選べて、「画面をロック」も入れられる。物理的なホームボタンを押すのが余り好きじゃないので、凄く嬉しい。電源のON/OFFとロック状態からの復帰以外は、ホームボタンを押さずに済む。


Googleアカウントを削除したい
iPhone7に機種変更したもう一つの理由です。パソコンと iPadでの検索以外は、もうGoogleと縁を切りたくなった。と言うのも、暫く前は検索履歴を削除したいと思えばクリック一回か二回でできたのに、最近はYouTubeの閲覧と合せてアクティビティなんて名前になり、どの部分が検索履歴なのか容易に判別できない。ネット検索で調べてやっと削除の仕方が分る始末だ。   
 「ユーザが望めば検索履歴は削除できます」と言えるように機能は残してあるが、なるべく削除しないように、複雑な仕組みにしてあるとしか思えない。履歴が残っていた方が、ユーザごとの好みに照準を合わせた広告を出し易いからだ。
 こうなったらGoogleアカウントを削除してやる!と勢い込んだところが、「アカウントを削除すると、Playストアで入手したアプリは全て使えなくなります」ときた。PlayストアとはiOSにとってのAppStoreの如きものでありますから、Androidスマホを使っている限りGoogleアカウントは削除できないのです。

そんな理由でiPhone7に機種変更? と言われそうですが、仏ルモンド紙9月17日付に『目に見えないプロパガンダ』という記事が出て、大意 以下の通り (「フィルター・バブル」で検索すれば、ウィキベディア等に同様の記事あり)。

サイバースペースの専門家Eli PariserがGoogleでの検索について、一例を挙げている:政治的立場の異る二人がGoogleで「BP」と検索する。すると保守系の人の検索結果の上位には、British Petroleum社に投資できるかどうかに関する情報が並び、左翼系の人の場合は、同社が引き起した最近の原油流出事故に関する情報が並ぶ。
 
こんな事になるのは、Googleの検索エンジンがユーザの検索行動を監視し、一人一人のプロファイルに合わせて結果を提示するからだ。Googleのアルゴリズムがプロファイリングに用いる要素は:
 年齢
 性別
 最近の検索行動
 位置情報
 使用するブラウザ
 パソコン等の画面の解像度
 訪問したサービスサイト
 クリック頻度
 ショートカット
等々、何十項目にも及ぶ。

検索結果に加えられるこのフィルター作用は政治・読書・旅行・文化等あらゆる分野に及び、結局ネットユーザの一人一人を認知的な一種の気泡 (フィルター・バブル) に閉じ込めてしまう (以下、SNSに関する分析が続くが省略)。

考えてみると、Googleは検索以外にも様々なサービスを提供している。その便利さでユーザを囲い込み、アカウントの削除なんてできない環境を作り出しているとも言える。

そ〜ゆ〜アンタはAppleにばっちり囲い込まれてるじゃん! 勿論そうですが、同社とは1995年に買った白黒のPowerBook150からiPadAir2まで20年余りの付き合いで、私の知的生活 (ハハハ) にはほんとに役に立ってくれたし、Google程には腹黒くないのではないか。その証拠に同社のブラウザSafariでは、プライバシーの保護とユーザ情報を記録しないことをモットーにする検索エンジン DuckDuckGo が選択肢に入っている。というわけで私儀、本日を以てGoogleアカウントを削除... あっ iMacの画面がまっ黒に... なんてことはありません。

追伸その一 ある商品やサービスについて調べると、その後暫く、何か検索する度にその商品・サービスの広告が検索結果の画面に現れることは、以前発見した通り (「ビッグブラザーからの贈物クッキー」)。

追伸その二 ウィキペディアによれば、DuckDuckGoの検索結果はYahoo! Search BOSS, ウィキペディア, Wolfram Alpha, Bing, 自身のウェブクローラーであるDuckDuckBot等、多くのソースを集めたものらしい。しかし検索精度はいまいちのようです。

追伸その三 スマホで使うのは電話, 住所録, スケジュール管理, メール, モバイルSuica, デザリングだけと言っても、やはりアプリとして歩数計, 電卓, 目覚しは欲しい。歩数計と電卓はすぐに良いのが見付かったけれど、目覚しにまともなものが無い。
 Androidでは実に良くできた目覚しがあって、AppStoreでも同じアプリのiOSバージョンが見付かると思い込んでいが、さにあらず。Androidの方がアプリ開発に自由度があるのでは?と疑いたくなる程です。好きな音楽が使えて、マナーモードや他のアプリが前面に出ていても機能し、フェードインが効く、という最低限の条件を満たすものさえ見付からない。有料アプリも含めて20本近く試した挙句に、iPhone7付属の目覚しが、フェードインを除いて条件を満たすことが分った。しかし目覚しにフェードインが無いのは頂けない。Apple社は即刻バージョンアップすべし。

追伸その四 ト...が当選した途端に、日本のマスコミが好意的な扱いに転じたように感じる。それまでは揶揄半分で困った奴だという扱いだったのに、急に「昔一緒にビジネスをしたことがある」「昔インタビューをしたことがある」てな人物が登場してきて、意外にまともな人間なんですみたいなコメントをする。呆れちゃいますね。
 彼は法人税と富裕層向け所得税を10年間で6兆ドル(約624兆円)減税し、一方で1兆ドル(約102兆円)の巨額インフラ投資を計画しているそうな。米国は今だって財政赤字を抱えているのだから、帳尻を合わせるには国債の増発しかなく、長期金利が上昇して企業の首を絞める... それで最終的に誰が得をするのか私には分りませんが、いずれ余りに複雑な方程式であることに厭気が差して、「あ〜面倒くさ、大統領なんても〜止〜めた...」と途中で投げ出すんじゃないでしょうか。

豊洲市場・地下空間の怪

「盛り土で安全性を確保」という方針が専門家会議で示されたにも拘わらず、実際に工事に取り掛かった時には、設計図に地下空間が設定されていた。まさか鉛筆が勝手に動いて図面を引いたわけではあるまい。誰かが地下空間を残す設計をし、誰かがそういう設計にOKを出した。

これを「誰か」のままにしておけないのは当然で、みんなが事実を知ろうと必死になっている。当人達はそうした動きを連日の報道で目にしながら、都庁のどこかで、突き止められるまでじっと息を潜めている積りなんでしょうか。自分で当時の経緯を明らかにしようとは考えないのでしょうか。それとも、そんなことを自慢気に話すなんて、ハシタナイとでも思っているのでしょうか。

政治評論家の伊藤惇夫氏が、「やっぱり誰かを血祭りに上げなきゃいけない、そうしないと、都庁の役人はこれからも知らん顔して同じようなことを続けていく」という趣旨の発言をしていましたが、その通りだ。問題の意思決定の当事者を何としても突き止め、それまでに時間が経てば経つほど、風当りと言うか制裁も厳しくなるのだ、ということを見せなきゃいけない。

それにしても、増田氏や鳥越氏が都知事になっていたら、どうだったでしょう。結局都庁の役人にうまいこと丸め込まれて、豊洲市場への移転が予定通り行われていたのじゃないか、という気がして仕方ありません。

祝オリンピック終了

あ〜遂に終った。これでやっと普段のテレビが見られる。開会式の8月6日から閉会式の22日まで、テレビをつければどこもかしこもオリンピック報道ばかり。堪え難きを堪え、忍び難きを忍んだ十数日でありました。閉会式では、安倍首相がスーパーマリオに扮してパフォーマンスだとか。いい大人があんなことして、こちらが恥ずかしくなる。一瞬で衣装を脱ぎ捨てたのは、彼も余りに気恥ずかしかったのかも。

スポーツファンが狂喜しているのをけなす積りはありませんが、どうしてあんなにメダルの数に拘るのか。そもそも五輪憲章はIOCと組織委員会に対して、国別ランキングの作成を禁止しているくらいなのに。
 それに、三連覇しただけで偉業でしょうに、四連覇できなかった、国民の皆様に申訳ないと、泣いて謝る吉田選手。三回金メダルを取って、今回だって銀メダル。それでも申訳ないだなんて...

私も、年を取ったせいか、かって心優しい子供であった名残か、表彰台などで涙を浮かべる選手を見るとつい、胸がつかえるような気分になってしまう。しかし、ドラマや映画ならともかく、現実の人間が涙しているところをそれもアップで映して、視聴者をほろっとさせようなんて、れっきとした扇情行為であると敢えて言いたい。

こうした全ての事が、いやそれに輪をかけた状況が、たった四年後にまた起こると思うと、今から暗鬱とした気分です。しかも、オリンピックの東京招致は不祥事に付き纏われている。

1)福島第一原発の汚染水問題。凍土壁も結局うまく行かず、「汚染水の問題はコントロールされている」なんて、全くの嘘であったことが改めて証明された。

2)新国立競技場建設にまつわるドタバタ劇

3)東京五輪エンブレムの、思い出しても笑止千万な選考過程。

4)招致を巡り、2億円余りが国際陸連前会長側に、息子の関係するコンサルタント会社を通じて渡ったらしい、という報道が出たと思ったら、あっという間に舛添前都知事のスキャンダルに取って代られた。でも、実はもっと多額の金が裏で動いているとの情報もある:文春記事

5)運営費が当初数千億円の予定だったのに、ほんとは総額3兆円だなんて、如何にも嬉しそうな顔してぶち上げる御仁。
 運営費の高騰を、「東京招致のためには、開催計画書で金額を低く抑える必要があったんです」なんて訳知り顔で解説する人間がいるが、論理があべこべだ。正直に2兆, 3兆と計画書に書いていたら招致できなかったのなら、嘘で勝ち取った招致ってことじゃないですか。
 それに、今になって「本当は3兆円掛かるんです」と明かすのは、四年後に迫った東京五輪を返上する度胸など、日本国民に無いことを見込んでるのでしょう。その上で、一度が〜んと噛ませておけば、批判を受けても2兆円は通せるという腹じゃないでしょうか。スポーツ業界だか建設業界だか知らないけれど、オリンピックを錦の御旗にすれば何だって許される、と言わんばかりの態度。普段ならとても実現できないような競技施設を、この機会に造らせようという魂胆が見え見えです。


ほんとは、今更でも返上した方が良いと思いますが、そんなことは断じて許さない雰囲気。疑惑にまみれて、誰も率直に喜べない東京開催にならなければいいですが...

源氏物語:和文の流れを大切にした原文テキスト

(2014年初出。ファイル名・句読点等の誤りを修正しました)

以前から、段落タイトルも注釈用の一,二,三...も「 」右肩の人名も無い、純粋に原文のみのテキストで読みたいと思っておりました。「源氏物語の世界」に掲載の本文をお借りして、縦書きに変換、段落タイトルを削除、更に些か過剰な句読点と改行を岩波『新 日本古典文学体系』版に合わせて削って、遂にそれが実現しました。
 和文の柔らかさと密度の高さを兼ね備えた散文を、お楽しみ下さい。以下のリンクから四分冊の形でダウンロードできます。
 
iPad 用 / パソコン用 :
  a系 (桐壷,若紫,...)  / a系
  b系 (帚木,空蝉,...)  / b系
  c系 (若菜上〜幻)  / c系
  d系 (宇治十帖)   / d系

(iPadでは、 "iBooks" のコレクション「すべてのブック」にファイル名「A.Iwanami.iPad」などとして入ります。タップすると本文の最終ページが表示されますが、画面下部に並ぶページのアイコンの一番右をタップすれば、先頭ページ(目次)が出ます)

a系, b系とは、『源氏』54帖の執筆順に関する武田宗俊の仮説に従って前半33帖を二系統に分けたもので、
 a系:最初に書き継がれて一旦完結したと想定される17帖 (桐壷,若紫,...,須磨,明石,...,藤裏葉)。
 b系:a系が完結した後で、現在の位置に挿入されたと想定される16帖 (帚木,空蝉,夕顔,...,玉鬘,...,真木柱)。
 
a系を通読してからb系を読むのが、作品の成立および当時の流布の実態に沿う読み方である上、物語の展開が遥かに見通し良くなるので、前半33帖はa系, b系に分けた形で作成しました。同仮説の根拠については、「『源氏物語』54帖執筆順の謎:大野晋の解説書紹介」をご覧下さい。

尚、以上のファイルは飽くまで和文を味わうためのものであり、匂宮,紅梅,竹河は割愛しました。「勝手なことをするな」とお叱りを受けるかも知れませんが、大野晋・丸谷才一『光る源氏の物語 下』にこの三帖について詳しい分析があり(p.193以下)、結論部分を引用しますと:
 丸谷 この三巻は本来の『源氏物語』にはなかったんでしょうね。読んで別に楽しい思いをすることもない。
 大野 読んでいたらいやになる。研究してみると、いろいろ怪しい。というのが結論かな。
 丸谷 読者はこの三巻を飛ばすほうがよいとおすすめしたい。
 大野 賛成です。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

2013年1月、「源氏物語の世界」に掲載の本文を元に、iPad用ファイルを作りました (注の五参照)。その時は、生まれて初めて一, 二, 三,...も「 」右肩の人物名も無いテキストで原文が読めると、大満足でした。しかし残念なことに句読点が多く、会話を引用する前後で必ず改行し、心中の思いまで改行して「 」で示してある。暫く読んでいる内に、草書の如き和文の流れがブチブチ切られる感覚に耐えられなくなりました。
 それなら『新体系』版で読めば? と仰るでしょうが、こちらは国文学の学生・研究者向けに底本を忠実に再現するための工夫が災いして、物語として通読するには煩雑です。何しろ、底本に平仮名であった語を漢字表記した時は振り仮名で示し、元々漢字表記で読みにくいものには ( ) 入りの振り仮名、歴史的仮名遣いと異なる平仮名は ( ) 入りの振り仮名で訂正、底本以外の青表紙本で異同のある文字には数字を付けて注で指摘、という調子です。
 そこで試しに、iPad用ファイルのちょうど読み始めた帖だけ、『新体系』版に合わせて余分な句読点, 改行,「 」を削ってみた。期待通り、読み進むに実に快く、ページの体裁もすっきりした。
 そういう処理をすれば、『新体系』版から数字・振り仮名を取り除いた本文が得られると分ってはいたけれど、54帖全体に亘って手作業でやるなど正気の沙汰ではないと、自分に言い聞かせてきた。それが一帖だけ試してみた結果、読み進むのに合わせて少しずつ先回りして行けば、何とか実現可能なことが判明した。これで和文の流れがブチブチ切られるような感覚からは解放されるし、一年もすれば全体が完成する... というわけで、桐壷から作業を始めて、漸く全帖完成しました。
 勿論、底本には句読点等が一切入っていないわけで、それを『新体系』版に合わせたファイルを勝手に公開するのは、問題無いとは申しません。自分だけに留めるべきかとも思いましたが、こういう形で読みたいと望むのは世の中に私一人とも思えず、折角手間暇かけたものを、愛好者に利用して頂こうと考えた次第です。
 それに、注釈まで写し取って提供すればれっきとした著作権の侵害でしょうが、今回の岩波風ファイルを利用するには、一度は注釈本のお世話にならなきゃ無理です。そういうものを無料提供しても、同社のビジネスに損害を与えないのではないか。むしろ、このようなテキストの出現により、小説のように原文を読んで楽しむ読者が増えれば、周囲の人も関心を持つようになって、『新体系』版が更に売れるかも...
 一方、日本中の国文科で「『源氏』はまず何より文学作品なんだから、訓詁の学も大切だけど、一度は『あてもなき夢想...』が提供する岩波風テキストで通読すべし」とアドバイスするようになれば、これは同社のビジネス・チャンスを奪う可能性無しとは言えません。もっともそれも、同社が必要最低限の振り仮名だけに留めたテキストを、iBookまたはアプリの形で販売する気になればの話です。
 いずれにしても、元々は自分が気持良く読み進められるようにと始めたことですから、公開した行為を同社に咎められたら、すぐに撤去します。でも撤去するだけでは足りず、損害賠償まで求められたらどうしよう...

追伸その一:冒頭に引用したサイトに、「私の作成したテキストに関してはダウンロード及び加工等もご自由」と明記されていて、大変感謝しています。句読点, 改行等の他、漢字の当て方で腑に落ちないものも、目に付いた限り『新体系』版に合わせました。

追伸その二:『新体系』版でも帖によっては、担当者の好みなのか、「源氏物語の世界」のテキストよりも却って句読点・改行の多い箇所があります。そういう箇所は朝日『日本古典全書』版に合わせました。

追伸その三:『源氏』は、会話の言葉が誰のものか判別しがたいとの評判ですが、前後の脈絡、敬語・謙譲語の使い方、一般に先に口を開くのは男で口数が多いのも男、などを考慮すると、誰の言葉か殆どの場合分ります。岩波文庫版 (山岸徳平校注) や小学館「古典セレクション」版を覗いていて突然気付いたのですが、「 」右肩に人物名入りのテキストで読んでいる限り、いつまで経っても自分で判断する力が付かないのじゃないか知らん。だから私の用意したテキストでお読みになるように、などとは申しません。『新体系』版では、人物名の代りに注釈用の数字を記し、自分で考える余地を残しています。

追伸その四:正にこんな形で読みたいと思っていた本文が実現し、今では自宅でも手製のファイルをiPadで読んでいます。三回目の通読以来頼りにしてきた『新体系』版が、「恩知らず〜」と呟いているようですが、自分の解釈に自信が持てずに注釈を見ると、全く読み違えていることもある。いくら和文が好きでも、意味を取り違えたまま読み進むのは空しい限りで、『新体系』五巻本の存在意義が無くなったわけじゃありません。

追伸その五。ご参考までにファイル作成の手順を記すと、帖毎に「源氏物語の世界」の本文をブラウザ上でコピーし、Wordに移す。縦書きに変換する。できた文書をpdf化する。但しその際、多少の工夫を施した。まずiBooksのコレクション「PDF」は横書きを前提としているので、縦書きのWord文書をそのままpdf化してiPadに移すと、ページを右へ右へと繰って行かねばならず、縦書きの文章に合わない。そこでpdf化の際に「印刷順序を逆に」した。このため、iPadの画面下に自動表示されるページ番号は逆順になっている。また老眼の私でも一々拡大せずに読めるよう、Word文書で活字のポイントや縮小率を調整し、一行の文字数も『新体系』版に合わせた。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

2013年1月に作成したファイル
  a系
  b系
  c系
  d系
("iBooks" 上のファイル名「SeriesA」等)

前半33帖を通常の順で読みたい方は、以下のリンクをお使い下さい:
 第一部 (桐壷 〜 関屋) (ファイル名 Part1)
 第二部 (絵合 〜 藤裏葉) (ファイル名 Part2)

ゴールドマン・サックスに一矢報いた気分になれる本

『ファイナンシャリゼーション 金融化と金融機関行動』と題して、経済の金融化を正面から取り上げています(小倉将志郎、桜井書店、2016年3月刊)。私の最大の関心事の一つですから、取り敢えず要点を拾い読みする積りで買ってきました。ところが序論で引き込まれて、巻を措く能わず... とにかく平易にして明快な文章で、理解できないところはパスです。

もっとも、ゴールドマン・サックスや格付け機関に対する怨念が、最後まで読み通す原動力になったのかも。何しろ2007〜08年の金融危機を引き起した張本人の大手金融機関は、司法の網に掛かっても、会社が一年の利益の数週間分に相当する罰金を払うだけで、幹部達は牢屋に入るどころか個人資産にも一切制裁を受けず、ほとぼりが冷めれば再び巨額の報酬を得ているのです。そのあたりを本書はどう見ているか、引用しますと (p.151):

大手金融機関が積極的にリスクを取ることで得た巨額収益は (中略) 社会的意義や公正さの観点からみて受け入れがたいものだ。何故なら、そうした利益の大半は結局のところ、既に様々な経済主体に分配された所得からの支払いに基づいており、実体経済における新たな価値創造とはほとんど何の関係も無いか、あるいは価値創造を阻害するものと言えるからだ。
 しかもそこでは、
 ○ 資金・情報・技術面で圧倒的優位に立ち、ゲームのルールを都合の良いものに変更する力を持ち、損失は自ら負担する必要の無い立場にある一握りの大手金融機関が、
 ○ そんな立場にない圧倒的多数の一般市民の資金を集めた年金基金・投資信託等の機関投資家、個人投資家、中小金融機関などに、
 ○ 有害な金融商品を高額で購入させたり多額の手数料を支払わせたりしている。
 こうした行為による巨額収益は、敢えてリスクを取ったことへの正当な対価と言うより、限りなくイカサマ賭博に近いのではないか


こんな風に事実をありのまま記すと、過激思想として斥ける向きがあるかも知れませんが、本書は異端の徒による檄文じゃありません。実証研究に基づいて書かれた、一橋大学の経済学博士論文に加筆・修正したものです。以下、要点をご紹介しますが (記述の対象は全て米国)、引用箇所をいちいち「 」で示すと煩雑なので、説明は全て同書によることを前提に、「 」は付けません。

1 金融化:企業, 家計, 政府の場合
製造業など非金融機関でない企業において、利潤の金融化が起こっている。即ち企業の利潤の中で、証券・ファンドへの投資、金融子会社の運営といった活動から得る利潤の割合が高くなった。また負債も増加した。これは特に企業同士のM&Aを仕掛けるため。
 また支配の金融化が見られる。具体的には企業統治において、特に機関投資家 (保険会社, 年金基金, 投資ファンド等) を始めとする株主の発言力が強まり、株主価値を最重要視する短期的な利潤追求が、企業経営者に半ば強制されるようになった。

家計でも金融資産が増えている。これは富裕層に限ったことではなく、ごく普通の世帯が老後を考えて年金基金に拠出したり、個人向け投資信託などで貯蓄を運用するようになった。
 加えて、住宅ローン, 自動車ローン, 学資ローン, クレジットカード・ローン等の負債が増加した。これは例のサブプライムローンに代表されるように、貧困層も例外ではない。

各国政府においても、財政赤字を補填するための国債発行により負債が増加し、金融市場に翻弄されるリスクが増している。それが現実化したのが7年前のギリシャを始めとする欧州債務危機だし、米国は世界最大の債務国だ。


2 影の銀行(シャドウ・バンク)
現実の銀行(リアル・バンク)は、預金を受入れて企業に貸出し、預金利率と貸出利率の利ざやで収益を上げてきた。そのため預金保険に加入する等の義務があり、また自己資本比率等の規制を受ける。
 これに対して影の銀行は、預金受入れを認められない代りに、現実の銀行のような規制を受けず、業務遂行に高い自由度がある。そして、現実の銀行と同じく短期で調達した資金を長期で運用し、最終的に資金の出し手と借手の間を仲介するのだが、資金調達の仕方も運用の仕方も全く異る (影の銀行システムの中核をなす金融技術「証券化」については、追伸その二を参照):
 調達:資産担保CP (commercial paper) などの短期債券を発行
    有価証券を担保にした市場からの短期借入れ
 運用:主に、企業・家計に対して現実の銀行が持つ貸出債権を元に発行された長期性の証券化商品を購入 (それが、実質的に企業・家計に金を貸していることになる。この辺の、様々な主体間の複雑な資金の流れはp.96の図式参照)。

運用のために購入する証券化商品は、複雑かつ不透明で非流動的である。代表的なのが債務担保証券(CDO)で、住宅ローン等の債権やその他の資産をベースとする証券化商品だ。それ以外にも、
 1) CDOのキャッシュフローを担保にした再証券化によって生み出される二次, 三次のCDO
 2) CDO等の債務保証の役割を果すデリバティブ契約であるCDS
 3) 複数のCDSのプレミアム支払いキャッシュフローを担保に発行されたシンセティックCDO
 .....
如何に複雑な仕組みの運用をしているかを示すためにコピーしただけで、ブログ管理人も理解しておりませんが、こうした金融商品を、主に市場を経ない相対取引(OTC)で、しかもタックスヘイブンや不透明なオフバランス取引を経由して行っている。

ここで忘れてならないのは、影の銀行による金融取引の拡大を促進する条件が整っていたことだ:
 1)金融界と学術界の協力による、新古典派経済学・効率的市場仮説に依拠したファイナンス理論とその応用である金融工学の展開。
 2)格付け機関。CDOのような複雑な仕組みの証券に対して、米国の三大格付け機関 S&P, ムーディーズ, フィッチは、リスクが極めて低い安全な債券であるとして、その大半に最高格付けを与えた (もちろん証券発行者からは高額の手数料を取った)。
 3)1980年代以降の米国政府・規制当局による新自由主義的スタンスが、影の銀行システムを強力に支援した。それを代表する人物が、レーガン元大統領とグリーンスパン元FRB議長である。
 4)機関投資家の資産が増大し (1 企業・家計の金融化 参照)、安全な金融商品への需要が急速に高まり、影の銀行への資金提供者としても、影の銀行が生み出す高度な金融商品の購入者としても、大きな役割を果した。


3 大手金融機関が積極的にリスクを取った
その経路は三つある。
 自己勘定取引:自己資金を用いて自らの勘定で行う短期的投資。この際、借入れによって自己資金の何倍も用意し、自己資金だけで生み出せる利益の何倍も得る、レバレッジという手法が用いられた。損失が出た場合は、損失額が何倍にも膨らむ。
 代替投資:株式, 債券の代りに商品, 不動産, デリバティブ, 未公開企業株式などに投資。
 OTCデリバティブ:当事者が相対で取引の内容・条件等を決めて実行されるデリバティブ (詳細は同書参照)。
 こうした取引に当って大手金融機関では、経営陣, トレーダー, 販売担当者などに短期的業績をベースとする成功報酬を与える一方、好調時に上げた巨額報酬を不調時や巨額損失の発生時に返却する義務は課さなかった。それが、短期的且つ過度のリスクを取るインセンティブとなった。

ここで一つ重要な点を指摘せねばならない。影の銀行システムで本質的役割を果す証券化商品, 高度な金融商品は、もともと様々な経済主体による負債の元利払いフローを裏付けとする。影の銀行システムが拡大し、そうした金融商品への需要が急激に高まるにつれ、供給不足が生じた。そこで金融機関は、金融商品を生み出す原料になり得る負債の範囲、つまり貸付けの相手を、それまでの優良企業から次第に中小企業や中低所得・貧困家計へと広げた。こうした中で貧困層にまで提供されたのが、サブプライム・ローンだったのだ。


4 大手金融機関の発揮する金融権力
金融権力とは、一握りの大手金融機関が、巨額の資金と人材、豊富な情報などをてこに、政府・規制当局と人的・資金的に結び付いて影響力を行使することを指す。

これによって自らに都合の良い法律や規制の導入を図ったわけだが、中でも大手金融機関の利益追求が主導した側面を持つ金融化の展開は、それら以外の大部分の主体にとっては、むしろ直接・間接に多くの経済・社会的な負担・損失を強いるものであった。
 特に一般家計は、金融機関の勧めで様々な個人向け金融商品を購入したばかりでなく、年金基金などの機関投資家を介して非常に不透明な金融商品を間接的に購入させられ、生活資金・老後のための資金をよりリスクに晒すことになり、ますます不安定な生活を強いられるようになった。

要するに大手金融機関は、圧倒的な資金力と広範な人的つながりを利用し、政治家や規制当局といった政治権力と密接に結び付くことで、リスクを取るのに有利な条件を次々と獲得した。それを端的に示すのが「利益の私物化と損失の社会化」だ。リスクを取って利益が出ている時は全て自分の懐に入れ、リスクを取り過ぎて損失を出し自己の存続が危うくなった時は、大き過ぎて潰せないという理由で、公的資金で救済されるというわけだ。

更に危機後の破綻処理においても、ゴールドマン・サックスを始めとする大手金融機関は、自分の利益になるように金融権力を発揮した。本書は、金融権力が効果を上げた具体的事例を4つ挙げているが、簡単に要約できることではないので自分でお読み下さい。


追伸その一。あ〜疲れた...

追伸その二。証券化について、蛇足ながらブログ管理者が解説を試みます。
 典型的な例として、住宅ローンの貸出債権の証券化を考える(サブプライム・ローンの話もここに発する)。
 例えば1000万円の住宅ローン(年利5%, 期間20年)を銀行が貸出す。この債権を別会社に移して、そこが100万円の債権10本に分割する。これを一本購入すると100万円の債権を持ったことになり、年5万円の利息が入っていずれ元本の100万円も戻ってくる(住宅ローンの借手からの元利払いのフロー)。
 実際にはその別会社が、何本もの住宅ローンを束ねた上で、分割して証券とする。ローンによって貸出期間も金利も異るわけだが、それを集約して分割するところが金融技術というものだ。その中で様々な手数料も発生する。こうした証券を一旦投資銀行などが全額引き受けた上で、投資家に販売する。
 最初にローンを貸出した銀行にとっては、貸倒れになるかも知れない債権をすぐに手放せるし、投資家は自らローン全額を貸出すことなく投資ができる。

SF映画『Time/タイム』(2012公開)

無料お試し期間を経て首尾よくTSUTAYA・定額レンタルの有料会員になり、SF映画のリストを古い方から表示させて、ゾンビ, モンスター系以外を片端から借り出しました。勿論、本筋と無関係な言動をだらだら見せるなど、最初の15分で引き込まれないものは直ちに却下。そうでもしないと、何のために生きてるのか分らなくります。

その甲斐あって遂にぐっと来る映画を発見し、二度見た上に927円の新品DVDを買いました。大きなお目々のヒロイン(アマンダ・セイフライド)をじっくり眺め、相手役の男とお手々つないで逃げるシーンの音楽を、何度も聞きたくなったのです。

バイオテクノロジーで遂に不老不死を実現した未来。しかし... 全ての人間が不老不死を享受しては、あっという間に人口過剰になってしまう。そこで、人口の大多数を占める貧乏人が、なるべく早く死ぬように仕組まれている。

 1)人間は25歳で肉体の成長が止まり、永遠に美貌と体力が25歳の状態に維持される。
 2)実は、25歳になった瞬間から一年だけ寿命が与えられる。同時に左腕に埋め込まれたデジタル時計が起動し、残り時間が何分・何秒まで表示される。時計の数字が全て0になった瞬間、心臓発作の感じで死ぬ。後は本人の才覚次第。と言うのも、
 3)時間が通貨。コーヒー一杯4分、豪華な食事なら8週間、バスに乗るのも一区間1分てな具合で、腕を端末の下にかざすと、寿命の残りから価格分の時間が差し引かれる。労働の報酬も時間で支払われ、その分寿命が伸びる。
 4)二人の人間が腕を重ねると、腕が下にある方の人間から上にある方の人間へと、時間が移動する。合意の上の場合もあれば、強引に時間を吸い取ることも出来る。

さて、地球は貧乏人の住むスラムゾーンと富裕ゾーンに二分され、その間の往来には通行料が掛かって、貧乏人は富裕ゾーンには入り込めない。しかもスラムゾーンでは物価が常に上昇し、税金も上り気味。貧乏人の寿命はどんどん減っていき、その分が富裕層の地区に流れるようになっている。

その結果、スラムゾーンの人間は25歳を超えると、大抵一日か二日の寿命しか持っておらず、毎日あくせく働いては翌日まで命を延ばそうとする。時間が通貨だから、生活するとは正に自分の寿命をすり減らすことなのだ。一方金持は、何百年、何千年という寿命を享受している。現実のアメリカでは実際、貧困層の寿命が中流以上に比べて明らかに短くなっているそうだから、格差社会の行き着く先を象徴しているとも言える。

ある日、スラムゾーンに住む実年齢28歳のウィルが、自殺願望でわざわざスラムゾーンに入り込んだ金持の男を、ギャングの一味から助け出す。逃げ込んだ場所で彼は金持から、スラムゾーンの住人の寿命が吸い上げられ、富裕ゾーンに流れていくシステムの存在を告げられる。そして翌朝目を覚すと、自分の時計には百年余りの時間が入っていた。

そこで、もらった時間で高級ハイヤーを雇い、通行料を何年分も払って富裕ゾーンに入り込む。そこで知り合うのが、システムの元締めとおぼしき大富豪のおてんば娘シルビア(アマンダ・セイフライド)。実年齢27歳だが、日頃から終りの無い人生にぞっとしていて、「いつかバカなことをしてみたい」なんて青年に語る。

初めて見る女優だが、お目々がアニメの少女なみに大きなカワイ子ちゃんで、モデルみたいな脚をしているのがちょいと残念。

映画半ば、ウィルと一緒に時間監視局員に追われて逃げるのだが、顎の高さまでのおかっぱ(ボブと呼ぶそうな)を左右に揺らしながら必死に走る姿が、何度見ても飽きない。更にその時に流れる音楽が、妙に気に入ってしまった。レンタルで二度も見たのに927円でわざわざ買ったのは、この約一分半のシーンのためです。

こうなったらもうシルビアさえいてくれれば、前回の「SF映画・ドラマを只で見る法」で『ギャラクティカ』の解説に引っ張り出した三人の女性などいなくても...

と妄想モードに入りそうなので、取り敢えずご覧下さい:予告編

追伸その一。ネットで検索すると、Time is money をそのまま映画にしてしまった、などと書いてあるが、私はバルザックの『あら皮』または「悲しみの皮」を思い出しました。

追伸その二。同じくネットでは、シルビアの吹替えをしているAKB48の篠田麻里子が酷評されているが、どうも理解できない。私の印象では、不思議と艶っぽくて潤いのある声で、口調も浮世離れしたお嬢様ののんびりした雰囲気にぴったりです。

SF映画・ドラマを只で見る法

YouTubeじゃありません、れっきとしたDVDでです。

昔からSFが好きで、
 アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡』
 ダン・シモンズ『ハイペリオン』
 タイムトラベルの金字塔三作 :『永遠の終り』...
など、夢中になって読みました。

しかし、最近はブログの作文で忙しい上に、老眼が災いして中々本で読む気にならず、映画かテレビドラマになってしまう。そんな中で目に留まったのが、ディズニー・チャンネルが放映した『エージェント・オブ・シールド』。ドラマは二時間読み切りのものしか見ないという原則を敢えて破り、毎週一時間の「シーズン1」22話を見てしまった。これが意外とテンポが速く、中身もあって面白い。魅力的なお姉さんも出てくる。

「シーズン2」は今年の三月からとCMにあって、また録画しようと思っていたのに、どういうわけか二月に人が出張中に始めよった... ように見えた。今から録画を始めても、最初の数話が見られないし、DVDを買えば全22話で16,700円もする。ちょっと買う気にならぬと思案していると...

どういうわけか、TSUTAYAのDVD宅配レンタル「30日間無料お試し」が目に入る。29日目に解約すればいいのだ、と自分に言い聞かせて登録する。すると、何ヶ月も前から見たかったのに買えば今でも3000円する『トゥモローランド』が見られて、これが実に面白い。ジョージ・クルーニーのおじさんと小さな女の子のラフィー・キャシディが地球の未来を救うお話で、最後にほろっとする。一年近く前のロードショーの際は、製作会社が的外れな宣伝をしたために振るわなかったらしいが、二度楽しんでDVDを返却した。

有料会員になれば、月2000円で新作8枚、旧作は何枚でも見られる... と言っても、見たものを返さないと次のを発送してくれないので、月に30枚見るってわけにはいかない。それでも、どうしても見たいものが月に一枚でもあれば充分元は取れるから、後は「只で見られる」。数年前には、電車で一駅のTSUTAYAの店舗に行っていたが、SFとなると有名作品以外はろくなものが置いてない。タイトルで選んで何枚も借りたけど、B級, C級ばっかりだった。

他にもテレビの予告編で期待して、
 『オブリビオン』
 『プロメテウス』
 『ルーパー』
 『バトルシップ』
などなど、乏しいポケットマネーで買って見たけど、詰まらないものばかりで、TSUTAYAのシステムを知っていれば無駄に散財することは無かった。

実は、TSUTAYAの無料お試しと並行して動画配信のHulu, Netflix, U-NEXT の無料お試しにも登録したけど、結局見たいSF作品が揃っておらず、TSUTAYAのDVD宅配が一番色々見られることが判明した。それに、動画配信で見たいものがすぐに見られたら、私のように意志の弱い人間は仕事が手に付かなくなってしまう...

さて無料お試しで見たのが、

『スターゲイト アトランティス』
 最初の『スターゲイト』シリーズは毎回同じようなストーリーで、しかもそれがチャチで見る気がしなかったが、アトランティスと付くと興味が湧いた。スターゲイトで亜空間を通って、別の銀河系の惑星にある人工都市アトランティスを調べに行く。しかし...
 探検隊の女性リーダーが綺麗だけど勝気にちょ〜の付くお姉さんで、私の好みに合わない。発想も結局最初のシリーズと同工異曲だし、二三枚見て止めた。あの世に行くまで何年残っているか分らないのに、のめり込めないものを見ている暇はありません。

『バビロン5』
 寡聞にして聞いたことも無いシリーズだが、欧米では凄い人気だったそうです。地球人の綺麗なお姉さんが巨大衛星基地バビロン5の副艦長として毎回出てくるけど、同時にゲテモノ同然の異星人も目にしなきゃならない。私の繊細な神経では耐えられそうもないので、4話見て止めた。

『ギャラクティカ』
 かって人類の開発したロボット達が人類を攻撃してきた。ゲテモノ異星人が出てこないのは良いが...
 天才エンジニアがロボット軍団の開発した女アンドロイドに誘惑されて、人類のコロニー壊滅を招く。しかし生き残った5万人を乗せた船団にうまいこと乗り込み、自らの行為がバレないように何やかや画策する。毎話この男の顔を見るのが、やはり耐えられそうにない。それでも悪女アンドロイドが、
 『Xファイル』の捜査官J.アンダーソン
 『CSI:マイアミ』弾道分析のE.プロクター
 『アベンジャーズ』のC.スマルダーズ
のどれかだったら続けて見たかも知れないのに、キャスティングが間違っとる...

というわけで、無料お試し期間中に見たテレビ・シリーズはどっちかってゆ〜と不作だったが、有料会員になって見たのが、

『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』
 いつものアベンジャーズ・スタイルがいよいよ派手になった、だけとも言える。メカ的には見せ所もあり、ロボット・スーツを身に着けるところを延々と映すようなB, C級的なところも無い。しかし... ストーリーに深みが無い、明快な太い筋が見えない、ただアクションが次から次へと雑然と繰り出されるって感じ?

『ターミネーター:新起動/ジェニシス』
 未来のある時点から、何かが現在に送り込まれる。しかし未来のその時点の状態が成立しているのは、正にその何かが現在にやってきたお陰なのだ... 
 タイムパラドックスの一つですが、これはストーリーの中で一回だけ使うのが効果的であり、説得力もある。『ターミネーター』はシリーズでそれをやるから今回は仕掛けが妙に複雑になり、並行宇宙に近いような理屈が付いている。認知症になり掛けている私は、一度ではフォローし切れない。当然、明確な印象も余韻も残らない。それとも、しらふで最後まで見れば感動するのか知らん。
 癪だから翌晩もう一度見た。確かに前夜の記憶には軽度のアルコール症状が認められる。今度はストーリーも良く見えるし、最後の場面はまあ感動的だ。しかし余りに雑多な要素が盛り込まれて、本筋が浮き彫りになってこない。全体は部分の総和にあらず、という真理がマイナスの形で証明されてしまった。
 それにシリーズの『1』からいつも、未来におけるスカイネットの機械軍と抵抗軍の戦闘シーンをちらちら見せられて、いつ本格的に見せてくれるのかと期待していたのに、どうやらそういう気は無いらしい。代わりに、あまり後味の良くないどんでん返しでお茶を濁された感じ。
 こうなってみると『2』が一番、筋の展開も明快で印象深かった。

な〜に、SFはこれだけじゃありません。これから
 『ハンガーゲーム FINAL』
 『スターゲイト:真実のアーク』
 『ウルトラヴァイオレット』
 『タイムコップ』
 『ヴァーチャル・ウォーズ』
  ......
 そして『スターウォーズ フォースの覚醒』
とま〜、続々見られるんです。

「何だ、これじゃ結局TSUTAYA宅配レンタルの宣伝じゃん」とお感じになりました? 私も同感です。

老いらくの囲碁

iPadで遊ぶ戦闘機ゲームと異り、30代に一度かなり凝りました。当時、都内某大学理学部数学科の助手をしておりましたところ、昼間っぱらからあちらこちらの研究室でパチリパチリと、約全員が囲碁に興じておりまして、私も付き合い上覚えるしかなかった... 少し分ってくるともう止められず、週一で碁会所に通うように。

さて、これ以上強くなるには定石を本格的に勉強しなきゃならない、つまりかなり記憶力を要することになった頃、仏留学の話が持ち上ってこちらも語学のために記憶力を要する。両方こなすだけの記憶容量が我が脳髄には無いもんですから、囲碁が犠牲になり、それ以来遠ざかっておりました。

30年後、家内と一緒にやろうかという話になって石まで買い直しましたが、何しろ彼女は初めてだし、ついつい教師だった頃の悪い癖が出て、そこに打つのは意味無い、そっちは形が良くない、などと口を出してしまう。その内に「打ちたいように打たせてくれないなら□○△×!」、反省の弁を述べても後の祭。家内を碁敵にする計画は不発に終りました。

それからまた数年、一昨年の正月に高校の同級生からもらった年賀状に「囲碁を始めた」とあって、不思議にそそられ、しかし人間を相手に打つ気にもなれず、パソコンソフトを探した。Gobanというフランス製らしきソフトが1000円で見付かり、その強い方のバージョンPachiを相手に4子程置いて、時々何となく打っていた。

ところが昨年暮にどういうわけか自宅のiMacが故障し、止むなく買い替えたらシステムがバージョンアップされていて、Gobanの強い方のPachiが動かない。これでは面白くないとまたソフトを探したところ、フランス人の開発した思考エンジンCrazyStoneを搭載した「最強の囲碁」なるものが出てきました。しかしWindows版しか無く、しかも一万円。一体どうすりゃイイのさ、とよく調べてみると、iPad用にエントリー版「最強の囲碁HD 〜CrazyStone〜」が出ていて720円。それでも7子置いてたまに勝てる程度です。かなり強いらしい人のレビューによると、アマの有段者並で、棋風もごく自然な打ち方であるとのこと。

7子も置いていると、一寸ヘマして中盤で押され気味になったら、もう勝てる可能性はありません。囲碁ソフトの良いところは、そういう時に何度投了しても、厭がらず相手してくれることです。

囲碁が気に入っているのは、ルールが初等幾何の公理と同じくらい当然で自明なものだけなのに、ゲームとして非常に深みがあること。その上どの石も同じ力しか持たず、好きな所に打てて、私レベルでも創造の楽しみが感じられること。

それにしても、模様、勢力、厚み等、人間が盤面全体を眺めてある程度感覚的に把握することを、コンピュータ・ソフトがどうやって処理できるのか不思議でならない。かく申す私より7子も強いんですから、CrazyStone はそういった側面もうまく処理できているに相違ない。

調べたところ、モンテカルロ法がベースになっているそうで、何でも一手打つために、ランダムな候補手で終局までシミュレーションし、候補手の中で最も勝率の高い手を選ぶと書いてある。しかし、候補手の一つから終局まで打つには、次の手、更にその次の手と、何十手か選んでいかねばならない。次の手を選ぶのに、またランダムな候補手で終局までシミュレーションすんの?... というところで私の頭は思考停止。オマエはいつも詰めが甘いと言われております。

こんな調子でいたところ、Googleが脳神経回路を真似た「ディープラーニング(深層学習)」なるAI技術を駆使したソフト「アルファ碁」を開発し、遂に人間のプロ棋士に勝ったそうな(2016.01.28)。もっとも相手はどうやら欧州チャンピオンで、世界最強の棋士ではないらしい。でも3月にソウルで、世界的なトップ棋士イ・セドル九段との5回戦が予定されているそうで、勝敗の行方が楽しみ...

と言うより何だか不安です。コンピュータにとってはチェスや将棋より遥かに難しいと言われる囲碁でも、人間はAIに負けちゃうのか。その内AIが自我を獲得して、映画『ターミネーター』シリーズのスカイネットがほんとに出現してしまうのではないか。事実アメリカのNSAは、電話の交信データを分析する極秘ソフトを開発し、パキスタンでテロリストを洗い出してドローンによる攻撃を仕掛けているとか。しかも、ソフトによる分析ですから当然誤差がある。それを「無実なのに殺害されるケースはごく稀」と、平気な顔して言っているそうな。その上NSAの担当者達はユーモアの積りで、この極秘ソフトをスカイネットと呼んでいるそうです。

ところで新聞記事には「GoogleがAI技術による「アルファ碁」を開発し」とあるが、正確には2011年に設立されたイギリスのAI関連ベンチャー企業ディープマインドが開発元で、Googleは同社を2014年に5億ドルで買収しただけ(だけ、でもないとは思うけど)。

こういう例はよくあるんです。有名なのはMS社が開発したことになっているMS-DOS。実はウィキペディアによれば、「同社にはOSの開発経験が無かったため (中略) シアトル・コンピュータ・プロダクツ社のQDOSを開発者込みで買収しIBM PC用に改修した」だけなんです(項目「MS-DOS」の一節「開発の経緯」)。

最近では、ソフトバンクが開発したことになっているロボットPepper。あれも実は、フランスのベンチャー企業アルデバラン社が開発した二足歩行の人型ロボットNaoがベースになっている。ソフトバンクは2012年初めに1億ドルでアルデバランの株式の78%を手に入れ、その後更に創業者の持株を買い取って95%を掌握したのだそうな(「ペッパー発表の舞台裏 仏企業のロボットが日本国籍になった日」)。

ベンチャー企業の開発したものを企業買収で自社の所有物にして、最初から自社開発したかの如く宣伝するて〜のは、如何なもんでございましょうね。それが資本の論理ってことでしょうか。Googleは最近、色んな分野に手を出しているけど、ひょっとしてみんなそんな感じなんでございましょうかね。勿論、我がApple社は違う、なんてことは申しません。

筒井康隆の『パプリカ』『文学部唯野教授』

ほんとはネ、新作『モナドの領域』について書く積りだった。ところが、新聞広告や帯封のキャッチフレーズ「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長篇」は、全くの期待外れ。

何より、タイトルに掲げた二冊の印象が余りに強かった。特に、夢の世界が現実に干渉してくるという奇想天外な虚構を端正な文体で語る『パプリカ』に比べると、新作のストーリーは薄味で迫力に欠ける。アリストテレスやトマス・アクィナスまで出てくる哲学・神学的議論を展開するための、口実にしか見えない (オマエの理解力の限界が露呈しただけだろ... と言う声が聞える)。

ま、「わが最高傑作...」と断言しているのだから、彼としてはこれぞ最高の到達点とお考えなわけだ。画家でも、一旦ある境地に到達してもそこに留まらず、常に新たな境地を開拓していく人がいる。筒井康隆も、『パプリカ』のような小説を二度書く気は無かったのでしょう。しかしそれでは私の気持が収まりません。


というわけで、まず『文学部唯野教授』。あのお堅い岩波書店が出したとは思えないような文体で、様々な文芸批評理論を平易に紹介という趣向らしく、章立ても以下の通り:
 第一講:印象批評
 第二講:新批評
 第三講:ロシア・フォルマリズム
 第四講:現象学
 第五講:解釈学
 第六講:受容理論
 第七講:記号論
 第八講:構造主義
 第九講:ポスト構造主義

難しい話を難しく語ることは誰でもできる... と思うけど、難しい話を噛み砕いて説明するのは、その本質を理解してなきゃ無理なわけで、敬服の至りです。『モナドの領域』の哲学・神学的議論も含めて、超一流の知性を備えた勉強家であることが分ります。

正直申せば、私にはどの講義もちゃんと理解できる程の教養が無いもので、専ら各講の間を繋ぐ唯野教授の饒舌を楽しみました。彼にとって「その名前が世界を表現する言葉となった」美人女子学生とのいきさつや、学内の様々な騒動を語る洒落のめしたお喋りは絶品です。


しかし2009年の記事「夢と記憶喪失と脳科学」にも書いたように日頃から夢に関心のある私には、何と言っても『パプリカ』が凄い。粗筋を思い出すため所々読み返して、虚構の世界に引き込まれる快感を改めて味わいました。よく考えてみるとそれは、筒井康隆がこの小説で用いた端正な文体を味わう快さであったとも言える。折目正しい日本語の模範として中学の国語教科書に載せたいくらいですが、中学生にはちょっとエッチ過ぎる描写が何ヶ所か。

小説の舞台は近未来の日本。精神医学研究所でサイコセラピー機器が開発された。センサーの詰ったヘルメットを頭にかぶって眠ると、睡眠中の夢を動画として記録できるのだ。患者の夢をモニター画面で観察して、治療に活用することもできる。特別に迅速な治療が必要とされる場合は、天才的美人セラピストが、サイコセラピー機器を通して患者の夢に入り込み、そこでじかに精神分析的手法を駆使する。その時彼女は、目の回りにそばかすを付けたりして18歳の娘に変身し、夢探偵パプリカと名乗る。

さて、サイコセラピー機器を更に進化させた驚異的な端子が開発される。名付けてDCミニ。直径7ミリ、高さ1センチほどの円筒形で、二人の人間がそれぞれの頭皮に装着するだけで、相互に相手の夢の中に入り込める。

当然のことながら、精神医学研究所には思想的違いを背景にした権力争いが発生している。パプリカと機器全てを開発した研究員を含む所長派が、イイ人達。オーストリア留学中にカトリックの異端中の異端に心酔した副所長とそのホモダチ美男研究員の一派が、ワルイ人達。

DCミニの開発をきっかけに両者の対立は決定的となり、研究員の発狂や失踪など、異常な事件が起こり始める。しかし、サイコセラピー機器が非合法だった頃からパプリカが秘密裏に治療をしていたことや、DCミニがまだ未公表の極秘の装置であることから、イイ人達も警察力を借りるわけにいかない。こうしてパプリカ達も敵方も、互いに相手の夢に侵入しては戦うことになる。彼等は訓練によって、半醒半睡の状態で夢を見、思うように目を醒ますことができるのだ。

そしてある晩、パプリカが夢の中で美男研究員の頭からDCミニを掴み取って眼を醒ますと、何とそれを手に握っていた! という事件が起り、DCミニが開発者の意図した以上の作用を持つことが判明。遂には、DCミニを装着した人間の夢に現れる妄想の産物までもが、現実の世界に出没する事態に...

この辺りのストーリー展開と描写は、筒井康隆の面目躍如です。しかも、夢と現実が混ざり合うシュールな場面でも、端正な文体が維持されて、それが逆に事態の進行にリアルさを与えています。そろそろお読みになりたくなったでしょう。iPadをお持ちなら、新潮文庫iBooks版が730円で買えて、今すぐ読めます。Kindle版もあります。

バルザックの『あら皮』または「悲しみの革」

新年のご挨拶代わりに記事をと思案しておりましたところ、買って二年半のiMacの画面が消えて真黒に。電源を入れ直しても、じゃ〜んというあの音は聞こえど、変化なし。その内にうっすらと焦げくさい匂いが漂ってくる... という衝撃的事態が発生。止むなく、津田沼のApple正規サービスプロバイダに持ち込みました。動画を見過ぎて電源部がヒートアップしたのかも... なんて冷かされましたが、本体からハードディスクを取り出し、持参のMacBookAirにデータを回収させてくれて、締めて3500円! 実に得しました。アップルから紹介されたデータ回収専門の業者には、最低7万だなんて言われたんですよ。
 そんなこんなで、元旦にお読み頂くのに、2009年初頭の記事よりマシなものは書けないと悟りました。既にご覧になった方はどうぞ悪しからず。


晦日の深夜12時を回ると年が改まると言うけれど、5月13日が14日になるのとど〜違うの? という思いが子供の頃から強く、その上あの雑煮に餅というヤツが苦手で、何が何でも元旦にしるこを食ってやる! と決心して両親に掛け合うこと数年、ある年遂に雑煮の代りにしるこを出させることに成功しました... とは申してもやはり年の変り目には、来し方行く末に思いを巡らせてしまう、そんな中で思い出したのがバルザックの『あら皮』です。フランスに留学して間もない頃、恥ずかしながらこんな小説があることも知らない内に、映画化されたものをテレビで見て強く印象に残りました。

何より、いきなり原題 “Peau de chagrin” に接したため、「悲しみの皮」の意と思い込んでしまいました。だって peau (ポ) は「人間の肌とか動物の皮」だし、chagrin (シャグラン) は「悲しみ」に決まってるやないか...。ところが今回念のため調べたところ、何と chagrin と全く同じ綴りで別の単語があり、“peau de chagrin” は「あら皮 (山羊・羊などの皮から作る表面のザラザラしたなめし皮)」を意味することを、初めて知りました。自慢してるわけじゃありません。

でも以下の粗筋をお読みになれば、「悲しみの皮」と信じて疑わなかった理由もお分り頂けるでしょう。バルザックだって、そう読めると気付いたからこそストーリーが頭に浮かんだのではないか、と愚考する次第であります。


 人知れぬ悩みに絶望して死を決意した一人の青年。昼の日中にセーヌ河に身を投ずるのも余りに目立ち過ぎる... などと考え、夕闇の迫るまで河岸をさ迷い歩く。ふと足を踏み入れた骨董屋で古今東西の珍品奇貨を延々と眺めた挙句、わが命も今宵限りと店の主人に告げる。すると主人が一枚のあら皮を見せて言うことに、
 「この皮を手に入れた者は、あらゆる望みを叶えることができる。しかし望みが一つ叶うたびに皮は少しずつ縮んでいき、縮み終ると同時に持主の命も尽きる。あんたさえ良ければこれを進ぜよう」
 嘘か真か如何にも奇っ怪な話ではあるが、青年の今の心境では、騙されたと思って我が物にするも一興。
 そしてその晩から、彼の欲望が次々と実現し始め、そのたびに皮も幾らか縮んでいる。
   ......................
 怖くなった青年は、パリでも随一という邸宅を構えながら、その中に閉じ籠ってただ天井を眺めるだけの生活を送るようになる。自らは何も欲すまいと、執事に自分の欲求を事前に察するよう命じたりするが... 生きている限り、何かを欲せずにはいられない。
 あら皮は小さく小さく縮んでいって、遂に彼は早過ぎる死を迎える。


とまあ恐ろしい話です。今回改めて、あら皮入手の場面と結末を読み直している内に、気が滅入ってしまいました。ところでこの小説、悪魔に魂を売る代りにあらゆる望みを実現してもらう、という古来の伝説の変形のようでもありますが... 見方を変えれば人の生とは、『あら皮』の話そのものではないか。色恋, 仕事, 金, 権力、何であろうと求めてエネルギーを費やせば、必然的に時間も費やすことになる。人生たとえ百年あろうと、残り時間はその分確実に短くなったし、それは寿命がその分だけ縮まったことに他ならない...

そんな寓意に気付いて暫くは、人生の深淵を覗き込んだ気がして神妙な気分になりましたが、小人閑居して不善をなす、相変らず時間を無駄に過ごすことばかりです。しかし、だらだらと無駄な時間を過ごすことが無意味とは限りません。早い話が、韓流ドラマの『ファンジニ』を発見したのも、そのようなひと時のことです(韓流ドラマ『ファンジニ』)。2008年7月以降の記事4本にご覧の通りすっかりハマってしまい、寿命をかなり縮めましたが、それに見合うだけの美しい音楽と夢の世界を味わいました。さて、新年早々何だか深刻な話になってしまいましたので、お口直しにフランス小咄を一つ。

50過ぎの男性が、掛かり付けの医者に折り入っての相談に来ました:
「先生、酒と色事を絶てば、長生きできるんでしょうか」
「う〜ん、長生きできるという保証は無いが、長生きしたと感じることは間違いないね」

進化論を否定する創造説と温暖化懐疑論

『日経サイエンス』2009年4月号に、全米科学教育センターの責任者による「創造説のナンセンスな変異 米国事情」が掲載されています。その趣旨を要約すると、
 
「生物の様々な種は進化によって生じたのではなく、造物主たる神が創造した…。米国ではこんな創造説の信奉者達が依然として、公立学校で進化論を教えることに反対している。創造説は進化論に代わる信頼できる説であると主張し、インテリジェント・デザインと名前を変えて偽装するなど、巧妙に適応を図ってきた。創造説教育では進化について科学的異論があるかのように教えるわけだが、その擁護は学問の自由を守ることになると主張するのも、戦術の一つだ」。

一方COP21の開催国フランスでは、どういうわけか温暖化懐疑論者が意外に幅を利かせていて、フランス学士院の一部門たる科学アカデミーが、温暖化人為説を明確に打ち出せないでいるそうです。

こうした状況に対して、フランス国立科学研究センター及びパリ第一大学の傘下にある科学技術史・哲学研究所の研究部長が、「温暖化懐疑論は科学なのか」と題した一文を『ル・モンド』紙に投稿しました(11月4日付)。ある時は科学の埒外の言説を展開し、ある時は学術研究の装いをまとうことによって、自らを鵺(ぬえ)の如き存在にしているところが、創造説と似通っているという分析です。


パリのCOP21開催を機に、気候変動についてまたぞろテレビで掴み合いにならんばかりの口論が起きたりしているが、ことはごく単純な話ではないだろうか。実際、IPCCのメンバーを始め、大多数の専門家の間で二つの点についてコンセンサスが存在する:
 1。気候変動は事実である。即ち地球の平均気温が長期的に上昇し、ローカルな変動が増加し、異常気象の頻度が上がっている。
 2。少なくも過去一世紀以来の産業活動が、気候変動の主たる原因である。
 更に最近6年の間に、科学者の意見分布を分析した複数の論文が学術誌に掲載され、このコンセンサスが非常に広い範囲に亘ること、異議を唱える少数の科学者は気候の専門家ではないこと、が示された (彼等は例えば物理学, 地質学, 気象学の研究者だ。ちなみに気象学の扱う現象は、時間のスケールが気候の場合に比べて無視し得るほど短い)。

それでは温暖化懐疑論は、単に間違った意見なのだろうか。困ったことにもっと複雑な性質のものであり、それが気候変動に関する議論に微妙な影を落している。状況は、進化論を支持する生物学者が創造説やインテリジェント・デザインの信奉者と議論する場合に似ている。相手は科学的に間違った見解を提示しているのか、それとも科学の領域外の議論を展開しているのか。これは一見、空疎で瑣末な問いのように見えるが、進化論を基礎とする生物学にとっては極めて重大だ。もしも創造説が単に科学的に間違った理論であるなら、学校で教える必要はない。しかし科学とは別の何かであるならば、代替的な世界観として教えることを排除できない... さて温暖化懐疑論は、どちらのケースに当るのだろうか。

気候学者、中でもIPCCのメンバーを正面きって攻撃し、その代表者達が一部の政治的利害と癒着しているとか、彼等の予測が引き起す恐怖をてこに巨額の資金を獲得しようと画策している、などと批判するのは、現在の学界とその手法を丸ごと拒絶するに等しい。確かに、「透明性, 無私無欲, 価値判断を入れない、といった全ての研究者が共有する科学の理想の名の下に異議を唱えているのだ」と主張することも出来よう。しかし異議の実際の中身を検討してみると、科学的次元の批判でないのは明らかだ。

英国イースト・アングリア大学で起こったメール事件は、その意味で象徴的だ。1996〜2009年に気候学者の間で遣り取りされ、その後不正な方法で一般に流されたメールの中味は、科学の世界ではごく普通の操作を語っているに過ぎない。
 グラフの曲線を単純化する、データの変化が見え易いように対数目盛りで表示する、グラフを外挿するなど、いずれも現代科学の中心的な手法になっているモデル化の一環である。モデル化とは、客観的データから出発して数学的に取り扱える曲線を再構成するため、一部の点を無視することを必然的に含む。更にこの曲線を理解するための方程式において、他の変数に比べて量的に微小な項は、正当な手続として無視され、方程式が単純化された形に書き直される。数学的モデルの構築は、単純化, 抽象化, 理想化のプロセスを必要としている。
 手法について問うべきことがあるとすれば、それは単純化すべきかどうかではなく、説明しようとする現象にとって適切な単純化と理想化は何なのか、である。ところが、懐疑論者はそうした操作がなされたこと自体を糾弾し、IPCCのメンバーがデータに手を加え細工し、自分達の望む結果を出そうとしたと主張する。これは、科学研究における本質的な点を見誤っており、従って科学的次元の批判ではない。

過去および将来の気候変動を記述するモデルを斥ける意見の大半は、このタイプに属する。つまり本質的に科学の領域外のものである。それは、専門家と呼ばれる人々の能力そのものを否定し、アカデミズムによる正当化を否定する、純粋に政治的な言説にも見える。実際そこには、ペテン, 詐欺, 虚言といったレトリックの氾濫が見られる。そのような議論が本質的に合理性を欠くとは言えないが、科学本来の性質を備えたものとは言い難い。

一方、産業が生み出す温室効果ガスは気候変動に殆ど寄与しておらず、気候変動の原因はむしろ太陽活動の変化にある、といった主張においては、科学的な疑問が提起されていることになる。Xという現象について、一般に認められている原因Bの代りに原因Aを提示しているわけだ。この場合、現象Xに関して、要因A,Bの相対的なウェイトの大きさを見極めることが必要である。A派, B派がその根拠を示して議論すれば、普通の科学論争となる。恐らく一方が正しく、他方は間違っている。この場合、専門家の間にコンセンサスがあることはB原因説を有利にするが、いずれにしてもこれは通常の学術的議論の次元に留まる。

以上をまとめるならば、懐疑論者が気候変動そのものを否定する際の議論は、大抵の場合科学の埒外のものである。ごく普通の人間が、「温暖化は起こっていない。何故なら2014年11月にパリでは異常に寒かった」と言うのと似たレベルのものだ (気候に関する予測はそもそも確率論的かつ巨大なスケールのものであり、ある時期ある場所で一時的に寒かったという事実で否定されるものではないし、そもそも次元の異る話だ)。
 一方、気候変動を現象としては認め、その原因に関して懐疑論者の提示する説は、しばしば科学的な誤りを含む。従って反駁可能なのだが、そのためには、本質的に反駁しようのない科学の埒外の要素から切り離す必要がある。

このように温暖化懐疑論者の運動は、非常にとらえ所の無い様相を呈している。ある側面においては科学の埒外にあり、他の側面においては科学的に間違った説を擁護しているからだ。このような紛わしい性格の故にこの運動は、批判からうまく逃れる術を心得ている。懐疑論者に対して、その説が科学的に間違っていると反駁すると、気候学者の大多数が支持する科学的手続、というより気候学を丸ごと否定する立場に逃げ込む。それを反科学的だと非難すると、自分達も気候学者と同じ手法を活用していることを示して反論し、「政治家やジャーナリストは科学的コンセンサスを語るが、我々が異論を唱えている以上、コンセンサスは成立していない」と主張するのだ。

追伸その一。これだけ気候学の専門家の間ではコンセンサスがあるのに、どうして温暖化懐疑論は根強く残っているのか不思議ですが、考えられるのは、
 1)化石燃料業界とその御用学者によるもの。懐疑論をぶっていればお金が流れてくる...
 2)2012年2月の記事「温暖化CO2犯人説は嘘なの?」の最後の方にあるように、民間企業の経済活動に規制を掛けることは何にせよ許せないという、イデオロギー的立場。
 3)個人的な推測ですが、原発推進派がCO2排出削減への貢献を謳うことに対する反撥から、CO2が原因で温暖化が起こっていること自体を否定したいという気持。
 三番目に該当する方はいっそのこと、原発がCO2排出削減に貢献するという定説に挑戦なさっては如何でしょう。原発建設に必要な資材の生産と建設工事に掛かるエネルギー消費、ウランの採掘から燃料集合体になるまでのエネルギー消費、いずれ来る廃炉に必要なエネルギー消費、再処理で出てくる高レベル放射性廃棄物の何百年に亘る貯蔵・管理に関わるエネルギー消費。この貯蔵・管理は、まだ開発中の技術と言っても良いわけで、一体どれくらい掛かることになるのか、はっきりしていないわけです。そうした全てのエネルギー消費に伴うCO2排出量は、再生可能エネルギーを別にしても、本当に他の発電方法と比べて少ないのでしょうか。

追伸その二。国立環境研究所・地球環境研究センターのサイトに温暖化に関するQ&Aがあり、モデル化についてもQ17に説明があります:
 「ココが知りたい地球温暖化

「貨幣は物々交換から生まれた」という神話

物々交換の不便さを解消するために貨幣が発生した、というのが通説で、私も中学の社会科の授業でそんな風に教え込まれた。しかるに齢70にならんとする今になって、これは全くの神話、つまり嘘っぱちだということが分ってきました。

『国富論』のアダム・スミスも、その系譜上にある現代の主流派経済学も当然の如く受け入れている神話とは、例えば次のように表現される(フェリックス・マーチン『21世紀の貨幣論』から少し整理して引用、電子書籍版もあり。同書は原著2013年、和訳2014年):
 古代にはお金は無く、人々は物々交換に頼っていた。しかし物々交換は非常に効率が悪い。自分が欲しいモノを持っていて且つ自分の持っているモノを欲する人を、見つけねばならない。しかも同じ時期に。やがてあるモノを選んで「交換手段 」にするという発想が生まれた。理屈の上では、支払手段として広く一般に受け入れられるものなら、何でも良かった。しかし実際には、金と銀が選ばれることが多かった。耐久性があって加工し易く持ち運び可能で、希少だからだ...

『21世紀の貨幣論』は、太平洋の孤島ヤップ島の例を引いて、文化人類学的知見からこの神話を粉砕した後、貨幣とはそもそも何なのかと問い、それは「譲渡・流通可能な信頼」であると論じる。

それから貨幣出現の話に移る。古代メソポタミアには神殿を本拠とする官僚機構が存在し、様々な経済活動を管理するために、文字・算術・会計という三つの社会的技術を発明したが、貨幣の導入には至らなかった。これに対して当時のギリシャでは、哲学者タレスにより「価値の普遍的尺度という概念」が生み出された。そして、メソポタミアの技術とギリシャ発のこの概念が出合ったことで、紀元前7世紀頃ギリシャに貨幣が出現した。

貨幣出現に至る因果関係の推論はかなり思弁的に見えますが、その後はイギリス古典経験論の創始者ジョン・ロックの銀本位制的思想からアダム・スミスを経てケインズまで紹介し、現在の主流をなす古典派・新古典派経済学の不充分な点を、歴史上の様々な事件を材料に解説してあって、中々面白い。

残念ながら多少ジャーナリスティックな書き方で、無理にメリハリを付けようとしているところが目障りです。訳文も特に前半部分で、「商品を貨幣とし、貨幣交換を交換の手段を用いて財やサ ービスを交換し合うことだとする考え方」など、私には意味の取れない箇所が二、三あります。幸い後半の主流派経済学批判の部分には影響しないので、寛容の心を持って見過すのが宜しいかと思います。私は非常に頭にきましたけど...


実は前々から貨幣に関心があって、この本より先に、書店で偶然見つけた『貨幣主権論』を読みました(M.アグリエッタ、A.オルレアン編集、原著1998年、和訳2012年)。人類学、経済学、歴史学、心理学等の研究者の共同研究による600ページ近い書物で、貨幣と債務について、『21世紀の貨幣論』より更に突っ込んだ分析をしている。

書名の「貨幣主権」とは聞き慣れない言葉ですが、現代の市場経済の場合に単純化して言えば、「個人は貨幣を社会 (実際には銀行や他人) から借り入れ、それによって商品を購入して分業参加の条件を手に入れる。生産を行った後、その成果を販売の形で社会に提供し、入手した貨幣で債務を返済する。このプロセスにおいて個人は一国の貨幣システムに従属し、同時に社会から孤立する危険から保護される」。こういった状況を指して、「個人は貨幣の主権の下にある」と考えるわけです。

さて本書は言わば人類学的前提として、「社会的全体性」という、社会を一つの全体として理解する見方を取る。近代以降の市民社会においては、「社会は諸個人が契約などに基づいて任意に生み出すもの、つまり社会に先立ってまず個人がある」という見方が主流だ。これに対して本書は「社会は最初から個人を包摂するもの」と考え、これを「社会的全体」と呼んでいる。
 ごく素朴に考えても、遥か昔に人間の社会が出現した頃、それに先立って個人なんてものが存在したわけもない。そして近代市民社会と言えども、太古の呪術的・宗教的共同体に始り、古代の四大文明や中世を経て成立したものであり、社会のまとまりも、そうした歴史的蓄積あってのものです。だから私は「社会的全体性」という捉え方に非常に説得力を感じます。

同様に主流派経済学では、「市場の交換を通じる個人間の関係はもっぱらヨコの関係 (対等な個人の間の契約関係) に還元され、また貨幣はせいぜい交換を容易にする道具としてしか考慮されなかった」。これに対して貨幣主権論なるアプローチでは、上に解説した通り貨幣は一つの制度としてそもそも個人を超えた存在であり、「市場の諸個人は貨幣という上位存在によって最初から規範的制約を課せられている (中略) 市場のヨコの関係も、個人と貨幣の間のタテの関係なしには成立しえない」と考える。

『貨幣主権論』は、こうしたアプローチによる学際的研究の成果をまとめた大著で、訳者の解説によれば、「交換重視から債務重視へと貨幣研究のパラダイム転換を提案」している。そのことにより「貨幣と社会 (のまとまり) との関係を問うという、社会科学的に重要な関心に沿った比較研究が可能になった」。

残念ながら後半はチョ〜難しく、買った手前、意地で字面を追うだけに終始しました。しかし一応理解できた最初の1/3くらいに貨幣出現の契機が、『21世紀の貨幣論』とは全く違う観点から説明してあって、非常に印象に残りましたのでご紹介します。

古代社会では、そもそも貨幣が出現する前から「原初的債務」という発想があった。引用すると(訳本、p.39最後のパラグラフ、文言に少し手を加えました)、
 「原初的債務」は、生者一人一人の存在を構成しているばかりでなく、社会を全体として永続させる要素の一つであった。これは「生の債務」と言っても良い。というのも太古の時代、人々は自分が神々や祖先といった至高の存在に依存していると考えた。宇宙的な力の源である至高の存在は、生者にその力の一部を分け与えてくれたのであり、生者はその意味で至高の存在に対して生の債務を負うていると考えた。命を保てるように力を贈られた代りに生者は、自分に託された生命力を生涯に亘ってあがない続ける義務を負う。しかし幾らあがない続けても、原初的な債務は完済されたことにならない。むしろ、そのようなあがなう行為の連鎖が至高の存在を構築するのであり、労働および日常の中で共同体のまとまりを強化する。特に供犠・儀礼・献納を通してそれがなされる。

さてインドのヴェーダ時代(紀元前1500〜500)には、特に重要な祭式の場合、その主体である祭主は、供犠の具体的行為を祭官であるバラモン僧に委託する。供犠には生贄を屠るなど必ず暴力的行為が伴うが、その穢れを避けるためである。しかし祭官との関係が余りにはっきりしていては、祭官の暴力行為の穢れが自分にまで及ぶかも知れない。それを免れるため、祭官には報酬として牝牛などが支払われるが、そのことによって祭官との関係は断ち切られると見なされた。

牝牛は様々な観点から貨幣の原型と考えられるが、最初の金属貨幣の発生は紀元前7世紀のリディアに見られ、戦争のための支出や傭兵の報酬に関連している。ところでこの時代の戦争は「著しく儀礼化され、しかも宗教的供犠のために行われた集団的暴力であった」。都市国家の市民達が直接の殺人者にならぬよう、報酬を払って傭兵を雇うのだが、自分達の代りに殺人を行う者との関係をも綺麗さっぱり断ち切るために、貨幣が用いられたと考えられる。

更に「キリスト教の世界において、貨幣のこのような機能を神話的に具現化したのが、ユダに支払われた30枚の銀貨である。確かにユダ自身がイエスを殺害したわけではないが、その点は重要ではない。彼は裏切者として生贄を売ったのであり、殺害の責任を永久に負うのも、実際の殺害者ではなく彼である。彼はその行いに対して支払いを受けているのだ (中略) 大衆運動のカリスマ的指導者を確認するのに、密告者の手を煩わせる必要はない。それゆえユダの協力は、実践的なレベルにおいては必要ない。ユダの協力が重要な役割を演じるのは、神話的なレベルにおいてであって、(ユダがキリストにした)接吻の行為は、生贄となる者を確認するためではなく、生贄の死の責任者を確認することに役立っているのである」。


結局、供犠という宗教的文脈で導入された貨幣が、傭兵への支払、傭兵から商人への支払、商人の税金支払などを通じて社会に広まって行き、商取引にも便利なことを誰もが認めるに至った、ということらしいです。こんな風に要約すると、「貨幣は物々交換から生れた」よりよほど神話っぽいじゃないか、と言われるかも知れません。是非、ご自分で確かめて下さいと言いたいのですが、学術書として研究者向けに原文が透けて見えるような生硬な訳文で、お勧めできません(Amazon.co.jpでも売ってますが、さすがにカスタマーレビューは無し)。でも貨幣の何たるかに興味があって、どうしてもそういう解釈を知りたいと仰るのであれば、お引き留めはしません。

追伸。「社会的全体性」という概念は、当ブログの記事「早期英語教育の問題点」で言及したドグマ人類学にも通ずる見方のように思われる。ドグマ人類学は従来の人類学とは全く異る発想に基づく理論で、法制史及び精神分析の専門家ピエール・ルジャンドルが構想し現在も形成途上にあるのだそうです。「西谷修Web」というサイトに同氏の解説「空虚に因果の鎖を留める」があります。

新国立競技場:それでオリンピックが招致できるなら...

幾ら高くついても構わない。これが関係者の正直な気持だったのではないか。そしてその思いこそ、今回の騒動のそもそもの原因なのではないでしょうか。あの当時、「何が何でもオリンピックを東京に」という、強迫観念にも似た熱気がありました。開催決定の瞬間の、狂喜乱舞の様をご記憶のことでしょう。そこに至るまで、「オールジャパン」なんて掛け声のもと、スポーツ界から東京都や国まで総動員で招致活動を行い、首相もプレゼンに一役買った上に、皇室の一員まで引っ張り出した。招致のためならどんなことをしても、幾ら掛かっても... という心理だったに違いありません。

だから、国立競技場を思い切って斬新なデザインで新築して、それで招致が勝ち取れるならと、国際コンペの段階から大盤振舞いした。メインスタジアム建設に北京で500億円、ロンドンでも650億円で済んでいるのに、新国立競技場には最初から1300億円という予算を設定し、それを誰も咎めなかった。東京開催が決まるまでは、招致の足を引っ張るようなことは一切言えない雰囲気だったのでしょう。建設費というのは膨らんで行くのが普通らしいのに、始めから1300億円も付けた上に、国際コンペはデザイン・コンクールという形にしてコスト面はそれほど検討しなかったそうな。そのまま造れば3000億円なんていう案が最優秀賞を得たのも、必然の成り行きだったと言えます。

いざ東京招致が決まって現実に引き戻されてみれば、もはや「幾ら高くついても」なんて言ってはいられない。コスト削減のために当初案にあちこちを手を加えた結果、明らかに流線形のイメージは損われているが、それでも2520億円という始末です。

ここ数日、テレビ各局が建設費の膨らんだ経緯を検証する中で、IOC総会での首相プレゼンの一コマが流れました。「日本はこんな素晴しいデザインの競技場を用意した、必要な予算も確保してある」てな趣旨のことを言っています。どうも安倍晋三という御仁は、国内でろくに担保されてもいないことを、外国に行っては安請け合いしてくるのが得意らしい。同じプレゼンの中で「福島第一原発の汚染水問題は制御されている」とも言ったし、今年4月の訪米時にはアメリカ議会で「夏までに安保関連法制を成立させる」と大見えを切った。


ところで2020年の招致活動について、東京都と東京五輪招致委員会の公表した報告書によると、約89億円掛かったそうです。内訳は海外PRに41億、国内の機運醸成に38億、立候補ファイルの策定費が10億など。実は2016年に向けた招致活動の際、他の候補都市に比べて日本は国内世論の支持が弱いと指摘された。国民の一般的感情として、何が何でももう一度東京でというわけではなかったのです。なのにどうして、IOC関係者相手ではなく国内機運の醸成に38億円も使って、2020年オリンピックを招致しなければならなかったのか。

大体、東京で開催したからといって、スポーツファンが全員、一日や二日は切符を買ってでも会場に見に来るというわけでもない。日本の人口全体から見れば、殆どの人は自宅や職場でテレビ観戦です。つまり、開催地がマドリードであろうとローマであろうと、同じことでしょう。カタールなんて、お金があり余っているようだから、ドーハでやってもらえば日本の懐は痛まないし、震災復興に必要な労働力・資材のコストが高騰するなんて言語道断の影響も避けられた (「震災復興に影を落すオリンピック招致」)。

そう考えて振り返って見ると、2020年のオリンピック開催に東京が立候補したのは、東北大震災・原発事故から4ヶ月後の2011年7月です。まるで日本国民の総意であるかの如く、何が何でも東京にオリンピックをという雰囲気にもって行ったのは、マスコミ・スポーツ界・建設業界の利害もさることながら、原発事故のことをなるべく早く国民の意識から消し去ろうという、政府と業界の意向があったのではないか、そんな気さえしてきます。

富裕層が富めば富むほど経済成長は鈍化する

IMF(国際通貨基金)所属のエコノミスト数人が、「富裕層の富が増せば増すほど、経済成長率は低下する」という調査報告を出しました。
 具体的には、資産規模で上位20%の富裕層の所得総額が、国民全体の所得総額(いわゆる国民所得)に占める割合を考えます。この割合が1%増えると(例えば42%から43%へ)、その後5年間で成長率は0.08%押し下げられ、下位20%の層が得る所得の割合が1%増えると、経済成長率は0.38%上乗せされる、とのことです。
 
ここ数年、先進国では成長率が1%前後を低迷しているので、0.08%低下あるいは0.38%上乗せというのは、注目に値する数字です。にも拘わらず、こういう分析は『日経』などでは紹介もされないようなので、仏『ル・モンド』紙の記事 (2015年6月17日付) の要点をご紹介します。


IMFのエコノミスト数人が、「富裕層の富が増せば増すほど、経済成長率は低下する」という調査報告を出した(6月15日発表の “IMF STAFF DISCUSSION NOTE, Causes and Consequences of Income Inequality : A Global Perspective”)。経済的新自由主義が掲げるトリクルダウン理論 (富める者が更に富めば、貧しい者にも自然に富が浸透する) に、公然と異議を申し立てたのだ。

例えば、上位20%の富裕層が得る所得の国民所得に占める割合が1%増えると、その後5年間で成長率は0.08%押し下げられる。最も富める者達が更に富を得ても、それは下の階層に流れ落ちて行かないのだ。逆に下位20%の層が得る所得の割合が1%増えると、経済成長率は0.38%上乗せされる(上記 NOTE, p.7)。

トリクルダウン理論は、レーガノミクスやサッチャリズムの施策、特に高所得者向け減税の根拠となったものだが、左翼思想に染まっているとは思えないIMFのエコノミスト達が、逆の結論を出したわけだ。これに基づいて各国の政治指導者に対して、格差を減らし成長を維持するために、貧困層と中間層向けの施策を重視するよう求めている。

実はOECDも同様の結論に達していた。2014年12月になされた調査の結果が、今年5月の経済格差に関する第三報告 In It Together : Why Less Inequality Benefits All に収められているが、先進国において1985年から2005年に至る20年間の格差の拡大は、平均して成長率を合計4.7%犠牲にしている。この間、富裕層の所得は急激に伸びたが、下位40%の層の味わった運命がそれを帳消しにしてしまった。

OECDの発表によれば、フランスはこの問題に関して中間的位置にあるが、2007〜11年の5年間(サルコジ大統領の時期)に限れば、格差の拡大は加盟国34ヶ国の内で3番目に大きかった。

最初に取り上げたIMFの調査は、先進国, 新興国, 開発途上国合わせて約100ヶ国が対象で、OECDより広い範囲をカバーしている。その分、格差拡大の力学と原因についてより突っ込んだ分析になっており、冒頭に挙げた成長率云々の他に以下の事実を指摘している:
 i) 金融のグローバル化と技術革新はどの国においても、上位10%の富裕層の所得の占める割合の増加に結び付いている。
 ii) 先進国では、数十年前から貧富の差がかってないほど拡大してきた。
 iii) 極端な富の集中が進行している。世界の富の凡そ半分に当る110兆ドルを、1%の人間が握っている。
 iv) 労働市場の規制緩和が、格差の拡大及び上位10%の富裕層の富の増大を伴っている。労働市場の規制緩和は富裕層に恩恵をもたらす一方で、貧しい労働者の交渉力を弱めることになっている。

iv)は、労働組合側が主張していることに他ならないし、IMFの別の未発表の調査とも整合性がある。即ち先進国では、平均賃金に対する最低賃金の乖離は格差の拡大と並行しており、また組合組織率の低下は上位1%の富裕層の所得増大と強い相関関係にある。

最後にIMFのエコノミスト達は先進国における格差縮小の処方箋として、次の二点を挙げている:
 1)人的資本の強化と能力開発
 2)富裕税を含む資産課税とより累進的な所得課税による、税制の再分配機能の強化

追伸その一。マスコミでは、アベノミクス以来 富裕層による高額消費が増えたことをはやしていますが、以上のような分析からすると、実に表面的な現象を追っているという感じがします。

追伸その二。こうなるといよいよ、日本がすべきは消費増税ではなく、資産課税と所得税の累進性強化ということになります。その消費増税に関して、ウィキペディアで意外な情報を発見しました。竹中平蔵氏の発言です:
 「格差是正のために税金を集めるわけであり、社会保障の財源に相応しいのは消費税ではなく所得税である。所得税を負担能力に応じて払ってもらわなければ、社会保障のためという理屈は成り立たない。すべての所得階層に同率で課される消費税は格差是正につながらず、むしろ格差を拡大させる」(視点:成長と財政再建へアベノミクス「仕切り直し」の好機 = 竹中平蔵氏 Reuters 2014年12月26日)。
 あの人がね〜。いや、あの人でもね〜と言うべきかも知れません。

昔々「てにをは」というものがありました

と言いたくなるほど、乱れる一方です。新聞・テレビで気付いたものを挙げると、

 岩崎を憎くて堪らない (岩崎が憎くて)
 子供へ向精神薬を処方するケースが増加傾向にある (子供に処方する)
 少年が同級生を暴行した (同級生に暴行)
 父親が長女を包丁で切りつける (長女に切りつける)
 激しい雨が地面を打ち付けています (地面に)
 ケニアに日本が援助:既存の発電所を増設する形で (既存の発電所に増設)
 宮崎駿さん、辺野古移設を反対する基金の共同代表へ (辺野古移設に反対) 
 欧州中央銀行は1月に決めた量的金融緩和を絡んで、条件付きでギリシャ国債を購入する意向 (量的金融緩和に絡んで)
 メルケル独首相は、ロシアが合意を守らない場合「我々は追加制裁の発動を除外しない」とロシアを警告した (ロシアに警告)
 そして私の知り合いの多くが、「昔からチカンは女性の△△を触っていたわヨ」と言うのですが、私の記憶では、彼等は昔は間違いなく女性の△△に触っていた。

以上の実例で最初の二つ以外は、「△△に○○する」と言うべきところを「△△を○○する」と言うタイプで、これが一番多く見られます。

2013年6月の記事「促進させる、加速させる、...:一体 誰にさせるの?」では、「漢字二語+する」という形の動詞について、どうやら自動詞・他動詞の区別に無頓着になってしまったらしいと書きました。促進する, 加速する, 再開する、などいずれも他動詞であったのに、そんなことにはお構いなく、促進させる, 加速させる, 山手線の運転が再開した、などと言うようになってしまったのです。

同じような単純化、私に言わせれば言葉に対する知的怠惰によって、動詞の目的語らしきものは全て「を」で受ければ良い、と考え始めたのではないでしょうか。だから本来「に○○する」だった場合でも、「を○○する」と言ってしまう。使い分けが面倒になって一律に「を」で受けてしまうのは、箸の持ち方をきちんと覚えさせるのが親の側でも面倒になって、目を覆いたくなるような箸の持ち方をする子供が増えているのと、似ているような気がします。
 このまま「てにをは」の誤用を放置していると、冒頭の「岩崎を憎い」も一般化していって、遂には「ボクは君を好きだ」なんて言うようになるかも知れない。しかし「君が好きだ」には、「自分の意志とは無関係に、自然に好きになってしまった」というニュアンスがあります。たとえ他の女に言い寄られてもボクの気持は変わらない、というわけでお互いに嬉しい。それが、「君を好きだ」なんて言われるようになるんですよ、それでも良いんですか、お嬢さん!

言語は必然的に変化して行くものであって、社会の趨勢に任せるべきだ、という意見は勿論あります。しかし、言葉の意味が変化して行くのと、文法上の基本的要素の使い方が変化するのとはわけが違う。
 追伸にあるように、「君が好きだ」の「が」も実は室町以降に少しずつ現れてきたそうですが、「に○○する」と言うべきなのに「を○○する」と言うようになったのはここ数年の現象であって、余りに急激です。言葉の変化はなるべく緩慢なのが望ましいわけで、そのためにも一国の言語には、最低限の規範意識が必要です。
 それなのにNHKを含めたテレビや新聞は、むしろ変化を助長している。テレビで連日のように「少年が同級生を暴行した」と聞かされれば、「同級生に暴行した」が正しいと思っていた人も、影響されてしまうでしょう。NHKも今や、きちんとした日本語を維持して行く責任の一端を担っているとは思っていないらしい。
 みんながこうした違いに気を配るのを面倒がっていたら、一体どうなってしまうでしょう。自動詞・他動詞の区別は無視する、「に○○する」と「を○○する」の使い分けも出来ない、「君が好きだ」がほんとなのに「君を好きだ」と言って何も感じない、こんな調子で行くと、日本語の繊細な綾が少しずつ失われていってしまうような気がします。
 ま、私の目の黒い内はそんなことはさせない。絶対「△△に○○する」と書き続けてやる...

追伸その一。幸い、「は」と「が」を取り違えるケースは、日本語習得のまだ充分でない外国人以外、見当らない。最近はそれなりに日本語が話せる外国人が強烈に増えてきましたが、「は」と「が」はどうやら最後の難関らしい。母国語が何かにもよるのかも知れませんが、これがきちんと出来たら基本は卒業と言ってもいいくらいです。

ことほど左様に、もの心付かぬ頃から日本語を習得した人間には無意識の内に正しい選択ができて、大人になってから勉強した人には難しいわけですが、それほど基本的な「は」と「が」の区別について、日本人の誰もが納得する文法的説明が未だに無いらしい。

実は恥ずかしながら『源氏物語』をぼちりぼちりと読んでいるものですから、あの時代にはどうもこの区別が無かった、と言うより今のような「が」の用法自体が無かったらしいと感じていたのですが、念のため岩波『古語辞典』巻末の「基本助動詞・助詞解説」(大野晋) の章を覗いたところ、次のような記述が出てきました:

 古来日本語では、動き・状態の主体を表す格 (主格) を明示する格助詞は存在しなかった。「花咲く」「山高し」というのが普通の表現であった。「花が咲く」「山が高い」という表現は一般的には江戸時代以後に確立した語法である。
 (中略)
「が」は本来、「我が国」「妹が家」のように連体助詞で、所有・所属を示し、体言と体言との関係づけをするのが役目であった。それが年月のうちに次第に変化した結果、室町時代以後、本来の日本語になかった主格の助詞としてはたらくようになった...

この後に具体的な変遷の記述がありますが、結局この辺の分析まで遡らないと、「は」と「が」の話に決着は付かないのじゃないでしょうか。

追伸その二。日本語の変化の早さは仏語と比べると歴然としています。
 上田秋声の「雨月物語」(1776) がもう注釈無しでは読めないし、福沢諭吉が明治維新後の1872〜76年に書いた「学問のすゝめ」さえ、現代語訳が出ている。
 それに引き換え、フランス啓蒙思想のヴォルテール(1700年代) やスタンダール(1800年代)など、いずれも現代仏語と基本的に変わらないから、注釈本など出ていない。勿論ヴォルテールの哲学思想を深く理解しようとすれば解説本が必要になるが、それは現代の哲学者でも同じ。
 日本は明治維新を経験したと言っても、フランス革命はそれに勝るとも劣らぬ激動です。やはり、「フランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一すること(ウィキペディア)」を目的として1600年代に設立されたアカデミー・フランセーズが、賛否両論あっても、明確な規範意識に則って辞書編纂等の活動を続けたのが貢献しているのじゃないでしょうか。